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2022.11.16

令和4年度第6回講義:菊地 圭児さん(H13卒)「向かい風を受けてこそ飛躍する —空港運営会社&過去の経験業界もご紹介—」

講義概要(11月16日)

 

○講師:菊地 圭児氏(平成13年商学部商学科卒/北海道エアポート株式会社 帯広空港事業所)

 

○題目:「向かい風を受けてこそ飛躍する —空港運営会社&過去の経験業界もご紹介—」

 

○内容:

就職氷河期のさなか、2001年に社会人となった私が最初に飛び込んだのは、旅行業界だった。社会人としての基礎を厳しく鍛えられた新人時代を経て、その後免税店、スタジアム、畜産、空港運営と、5つの会社を経験してきた。好奇心旺盛な私にとってはどれも面白い世界で、たくさんの出会いや学びを積み重ねることができた。転職する上で大切な軸や心構えを踏まえながら、私のキャリアや仕事観を、進路選択のヒントとして話してみたい。

 

 

出会いと経験は、会社や業界の壁を越えてつながる

 

 

菊地 圭児氏(平成13年商学部商学科卒/北海道エアポート株式会社 帯広空港事業所)

 

 

 

 

最初に飛び込んだ旅行業界

 

 

私は2001年に小樽商大を卒業しました。当時はいわゆる就職氷河期で、就活ではとても苦労しました。

学業ではまず、高宮城朝則先生のマーケティングのゼミ。グループ3人で学内の懸賞論文(現在の学生論文賞)にチャレンジして、入賞して2万円を獲得しました。それで3人で回転寿司をおなかいっぱい食べたことを覚えています。賞金を取るぞ、という目標がモチベーションになりました(笑)。卒論では、新しい観光の動きを行政の施策なども含めて分析しました。当時台湾からの観光ブームが起きていたのです。インバウンドブームの始まりですね。

勉強以外では、ワンダーフォーゲル部と生協学生委員会の活動に熱中しました。ワンゲルでは近場のトレッキングから冬山まで、メンバーの力や志向に合わせて幅広い活動をしていましたが、私は北アルプスなど遠くの合宿にも積極的に参画しました。車で北海道のすみずみをまわったことも良い思い出です。

生協では、仲間と新入生歓迎企画「よろず家」を立ち上げました。最初は10数名の参加でした。でも生協のインスタで見ましたが、いまはすごい規模のイベントに発展したようで、うれしい限りです。

 

私はいま44歳で、転職を重ねて5社目の会社で働いています。北海道エアポート(株)という、道内7空港の運営などを行う若い会社に、昨年の7月に入社したのです。今日は私がなぜどのように転職をしてきたか、という話をして、最後に現在の会社での仕事を紹介します。

 

はじめに触れましたが、私の就活は、1990年代後半からの就職氷河期にありました。なんとか入社できたのが、近畿日本ツーリスト(株)という、業界2位の旅行会社です。「野武士」 と呼ばれる積極経営で業界シェアを拡大してきた会社です。

もともと旅行が好きで、卒論もマーケティングから考察した観光論でした。そして、こうも考えました。文系の新卒の大部分は営業職に就きます。どうせ営業をするのなら、自分が好きな商材を売ってみたい、と。

入社するとまず札幌教育旅行支店というところに配属され、中学・高校の修学旅行や宿泊研修などのセールスと、手配・添乗の仕事をしました。関西や広島が多かったです。2年半で、USJなど、人気の観光スポットにはそれぞれ10数回行きました。

そこから北海道イベント・コンベンション支店に異動して1年半勤務します。これは学会や職場旅行などのセールス・手配・添乗の仕事です。学会はお客さまを札幌に呼ぶ仕事ですが、職場旅行の目的地は、業績が好調なクライアント企業の旅行先としてアジア各国、ヨーロッパ、ハワイなど。海外添乗をたくさん経験しました。

しかしこの間、アメリカで同時多発テロがあり、その報復のためにイラク戦争が勃発。さらにSARS(重症急性呼吸器症候群)というパンデミックが起こりました。旅行業界にとってはとても厳しい逆風の連続です。会社の業績は低迷しました。一方で、現場では激務がつづき、数字のプレッシャーもあります。私はノイローゼ寸前に陥ってしまいました。3年目くらいで、この会社で長くは働けないな、と思うようになります。

 

旅行業界の特徴を俯瞰してみます。まず「形のない商品」を売るのはとても難しいことです。さらに、ヒット企画を生み出しても(業界では商品を造成する、と言います)、特許があるわけではないので他社がすぐ真似ます。そして、自動車業界のように、製品のモデルチェンジによって販売価格の立て直しを図る、といったことはありません。中味が変わっても、ハワイはハワイですから。だから薄利での価格競争が継続しがちで、そのうえ近年は、営業効率の良い団体旅行の市場は小さくなるばかりです。

ちなみに皆さん、修学旅行の旅行代金って、格安旅行が広がっている時代にしては高いな、と思ったのではないでしょうか。その理由は、修学旅行は一発物の大型団体であり、行程や見学内容など完全にオーダー商品であるからです。毎回イチから内容を作り上げて、営業担当者は1年前から動かなければなりません。

 

結局3年半くらいで私は転職を選びました。

でももちろん、得ることもいろいろありました。整理してみると、厳しい激務も、新卒で社会人の厳しさを学ぶのにはちょうど良かったかもしれません。また、たくさんいる社員の中で、信頼のおける上司や先輩との出会いもありました。

 

 

沖縄での免税ビジネスへ

 

 

縁があって移ったのは、旅行者向け免税店ビジネスの業界で、沖縄ディーエフエス(株)という会社です。札幌から沖縄へ引っ越しです。

ディーエフエスとは、Duty Free Shoppersの略で、ファッションのルイ・ヴィトンやシャンパンのモエ・ヘネシーなどからなるLVMHグループの企業です。世界各国の空港内やホノルル、グアムなどに出店しています。ここが沖縄の那覇市内に大型店舗を出店することになり、立ち上げメンバーになりました。近畿日本ツーリストで同期だった人が先にこちらに移っていて、沖縄店を立ち上げるから来ないか、と誘われたのでした。

この店は県外来訪者がブランド品を免税購入できる大型の市中店舗なのですが、国内旅行なのに免税販売が実現した理由には、こういういきさつがあります。かつて沖縄は外国扱いで(1972年本土復帰)、本土の人は沖縄の免税店で、洋酒などを免税で購入できました。この制度(戻し税制度)が、沖縄本土復帰後も「特定免税店制度」として残ったのです。そして、政府の沖縄経済振興策の一環で大型の免税店がこの時ひさびさに開業しました。

 

私の仕事は、旅行会社などに営業して、県外からの観光客にこの新しい店に来てもらうことです。旅行商品のパンフレットに掲載してもらったり、広報担当者と共にTVの取材も仕掛けました。ファッション誌などの記者さんたちを無料招待して体験を記事にしてもらうメディアツアーも組みました。

でも当時(2005年ころ)の沖縄は、旅行先として人気ではありましたが、トラベルリテール(旅先ショッピング)の概念は薄く、沖縄旅行でのブランド品購入を浸透させることは困難でした。海外旅行であれば現地のガイドさんに権限があって旅程にも余裕があるので、彼らに営業をかけることが誘客に有効なのですが、国内旅行では立ち寄り場所があらかじめ細かく決められていて、現地レベルでの交渉だけで団体の立ち寄り場所は変えられません。しかしそのあたりの状況が見えていないトップは、ハワイやグアムのノウハウを使えと言います。外資系企業ならではのトップダウンの指示に現場が振り回されました。逆らえば解雇になります。事実、上司二人が店を去りました。心身ともにハードな日々がつづきました。

厳しいけれどなんとか頑張ってみようと思った矢先に、札幌での求人応募のオファーを受けました。まだ1年半しかいない会社を辞めることには迷いもありました。しかし信頼できる上司に正直に相談しました。「自分を必要としている場所があるなら、行った方が良いんじゃないか—」。そう言っていただけました。そこで沖縄を離れることにしたのです。27歳でした。

 

1社目の仕事がキツすぎて転職をしたのですが、2社目はさらに激務でした(笑)。でも前職で得た知識や経験を免税店への集客を訴求する現場でかなり活かすことができました。そしてここでも、信頼できる上司や先輩と出会うことができました。1社目同様、そういう方々とはいまもおつき合いがあります。

 

 

スタジアム運営の現場で広報のやりがいを実感

 

 

3社目は、(株)札幌ドーム。札幌ドームを運営する、札幌市と民間企業が共同出資した第3セクター企業です(公企業を第1セクター、民間企業は第2セクター)。皆さんファイターズやコンサドーレの試合、あるいはコンサートなどで一度は行ったことがあるのではないでしょうか。1998年設立で、新卒採用のほかに、いろんな経歴をもった人が集まった会社でもありました。

 

この会社の事業を整理すると、まずイベントなど開催場所として主催者に設備や空間を貸し出す「貸館」があります。そして飲食やグッズ販売、駐車場などの「商業」。展望台などを活かした施設見学ツアーを売る「観光」。館内のフェンスなどを媒体とする「広告」があります。

 

私の仕事は、広報・宣伝でした。

例えば札幌ドームの公式サイトの管理や広報誌の制作、報道陣への対応、地下鉄の車両や新聞、ネットなどを使ったドームの広告、そして電話やウェブからの問い合わせ対応などが仕事です。これらはすべて、札幌ドームへの来場者を増やし、売上を増やすことが目的です。販促キャンペーンの告知のために、夕方のTV番組に生出演したこともありました。

また、経営情報やCSR(Corporate Social Responsibility)の取り組みなども広報します。

 

さらに、ユーザーサポート。

交通アクセスや館内や座席の案内、飲食の情報など、お客様がいだく不安や疑問を取り除くのも大切な仕事でした。私たちはこのサポートを、お客様が費やす「調査コスト(時間や手間)」を軽減すること、と位置づけていました。

この考えに基づいて交通アクセスの案内を改善した例を紹介します。

大規模イベントがあると札幌ドームでは、地下鉄の真駒内駅や平岸駅、南郷18丁目駅などからシャトルバスを運行します。ウェブ担当者はまず、シンプルにすっきり情報を見せたい、と思いがちです。そしてクレームを防ぐために、注意事項はもれなくしっかり載せたいと考えます。しかしこれではともすれば、お客様の重視する項目をカバーできないことがあります。はじめて札幌に来る方もいらっしゃるのですから。

つまりお客様はまず、並んでから到着まで何分かかるの? 乗り場は分かりやすいだろうかストリートビュー見たけどよくわからない。○○バスってどんな色なの? 運賃を払うのは乗る時?降りる時?  といったことが知りたいのです。(スライドでご覧いただいているように)私たちは、利用者の目線でサイトの情報デザインをブラッシュアップしていきました。バスと乗車位置がちゃんと写った写真を必ず入れる、運賃支払いのタイミングを追加する、といったことです。

 

また札幌ドームは、北海道日本ハムファイターズと北海道コンサドーレ札幌という、ふたつのプロスポーツチームのフランチャイズでもあります(ファイターズは今季まで)。私たちはこのふたつの広報チームとつねに連携しながら広報・宣伝を進めていました。その上で、両チームのサイトとの情報のダブリを減らして、そちらにはないコンテンツを中心にページを構成します。数年続けていくと、ページビュー数とリピーター率で着実に数値がアップしたことが、ウェブ解析からわかりました。

これによって両チーム以外のイベント(コンサート、展示会など)、 飲食キャンペーン企画などの告知力を強化することができました。

 

 

企業広報の存在意義とは

 

 

また広報・宣伝は、お客様が費やす「調査コスト(時間や手間)」を軽減することで、コールセンターやメールでの問い合わせの数を抑えることもできます。

「お客さまが気にしていること」を尊重してサイト改良を続けた結果、 電話問合せ件数が減っていきました。特に朝一番で電話が一斉に鳴り出す「朝イチの入電ラッシュ」が緩和されました。コールセンターの応答率(話し中にならない率)も改善され、サイトの問い合わせフォームからの質問の数も減らすことができ、問い合わせに回答する業務・労力の改善につながりました。

 

ユーザーサポートによって業務改善を進めるためには、お客様の声を聞くこともとても重要です。ドームの使い勝手や不満などについて、2012年には「札幌ドームオンラインリサーチ」として間口を広く取ったオープンアンケートを行い、2000近いサンプルを得ました。2013年からは毎年100名前後のモニターアンケート形式に変更して2014年からはその中からピックアップした方数名に集まっていただいて、社員や役員と意見を交わすモニター座談会も定例になりました(コロナ禍で現在はストップしていますが)。

さまざまなご意見をいただきましたが、それをもとにスタンドの手すりやエスカレーターを増設したり、車椅子席やトイレまわりを改修するなど、施設・設備の改善にも活かされました。

札幌ドームでスタッフにていねいに対応してもらい感激した、ありがとう! という方がいらっしゃる一方で、ドームの設備やサービスをめぐってこんなイヤなことがあった、抗議したい!という方もいらっしゃいます。しかし私たちは、この両極のあいだにあるはずのさまざまな声、つまり「わざわざドームに電話して伝えようとまでは思わないレベルの不満点」も、ていねいに聞き取ろうと考えたのです。

 

 

どんな企業も、さまざまな事情や制約の上で活動しています。自社のことを知ってもらうためには、販売促進を軸にした広告のほかに、企業は社会にもっと自らを開いて積極的に情報発信をすべきだー。私はそう思うようになりました。そのことが好感度、ひいては売上をアップさせるために欠かせない基盤になります。

また、メディアは物事をすごく単純化して報道してしまいます。広報は取材を受け入れる窓口なのでテレビや新聞の記者さんとも日常的にやりとりがありましたが、そのことの矛盾や難しさも感じました。しかしそうした課題がまた、仕事へのモチベーションになりました。

 

私の場合、入社以来部署の異動なしに13年間すごしました。いずれは違う部署に移るだろうな、という予想も立ちました。一方で、ドームの広報として自分はこれ以上何ができるだろうか、という気持ちもありました。そんなとき転職サイト経由で求人応募のオファーを受けたのです。

私は次のステップに上ることにしました。

旅行業と小売業の経験の上に札幌ドームに入社して、未経験の広報業務についた私ですから、当初は初めてでとまどうことも多く、悪戦苦闘しましたが、しだいに広報の仕事のやりがいを実感することができました。総括してみれば、私にとって広報とは最高の仕事でした。またここでも、信頼の置ける上司・先輩とたくさん出会えました。いまでも協力し合える関係です。

 

 

十勝の企業型畜産ビジネスへ

 

 

4社目は、(株)ノベルズという、十勝を拠点に肉牛生産・酪農・食品事業を手がける農業法人の広報部門です。道東12か所、山形3か所の牧場で約3.3万頭を飼育していて、自社ブランドで上質な道産牛肉「十勝ハーブ牛」なども展開しています。道内最大規模、全国でもトップクラスの畜産企業です。

分野はこれまでとまったくちがいますが、仕事は広報です。新たな領域で大好きな広報の仕事を担当できることがまず魅力でした。さらに2006年立ち上げのスタートアップ企業ですから、たくさんのことを新たに学べて成長できると考えました。勤務地は、今度は帯広です。

 

広報室の課長として、企業イメージの向上や地域貢献の分野で新たな世界に挑みました。人材の募集や採用のための広報も重要な仕事です。

十勝は、スケールでも、先進の技術を取り入れた新しい取り組みでも、日本の畑作や酪農、肉牛生産の最先端を走っています。

自然の営みを相手にする第一次産業は市場環境の急変には即応しづらく、出荷量は簡単には増やせないし減らせません(急激な需要減によって例えば生乳が出荷できなくて廃棄された、といった報道は聞いたことがあるでしょう)。また、肥料や飼料を大量に輸入するために為替リスクも高く、現場の人材確保の苦労もあります。

国内農業は、家族経営から企業型経営への転換と農地の集約が進んでいて、 なかでも十勝は大規模化や効率化への志向がとても強い、全国有数の農業生産地です。

その中でもノベルズという会社(農業法人)は、日本では珍しい幅広い領域で(酪農と畜産を大規模に両立させている企業はほとんどありません)、スピード感たっぷりの事業を展開しています。

企業としては発展途上でベンチャー精神も強く、突発のミッションも少なくありませんでした。また、牧場スタッフの応募獲得には苦労が絶えませんでした。人材確保の意味でも、企業の魅力や価値を社会に発信する広報の役割は大きかったのです。

 

文字通りちがう畑に飛び込んで、激務とプレッシャーの日々でした。そのたいへんさと引替えに私は、北海道十勝の大地とともにある一次産業のビジネスを経験して、さまざまな気づきやスキルを得ました。

農業に根ざした十勝は、相対的にやはり豊かだと感じました。大規模農家や農業法人が上げる利益が、地域に行き渡っているという印象です。ITやロボットを駆使した酪農業の展開、上士幌町のドローン配送実験や自動運転バスの実用化など、近未来へのチャレンジ精神もいっぱいです。ご承知のように大樹町では宇宙開発も進められています。そして、帯広はほんとうに住み心地の良いまちでした。札幌で生まれ育った私にとって、十勝には知らない北海道がたくさんありました。

 

さて、そんな日々が2年半くらいたって、あるとき交通・観光分野での中途採用募集が目に入りました。仕事が激務だったこともあり、いままでの経験をふまえれば、20代のころの自分とはまったくちがう自分として、もう一度観光関係のキャリアに戻ってみたいな、と思いました。

 

 

空港運営会社へ

 

 

私の目を引いた会社は、北海道エアポート株式会社(HAP)という、道内7空港を運営する会社でした。

北海道エアポートは、道内の7つの空港の一括民営化に伴う運営企業として、20198月に設立されました。従業員数約700名。安全で安定的な空港運営をベースに、航空ネットワークの充実と観光客の流動拡大などに取り組んでいる、これからの北海道経済に深く参画、貢献していく企業です。7つの空港とは、新千歳、函館、旭川、帯広、釧路、女満別、稚内の各空港です。

当社は空港を施設だけで考えるのではなく、地域の営みと一体のものとして考えています。世界中から北海道を訪れる人々の⽞関となるのはもちろん、日本や世界に向けて北海道各エリアの魅⼒を発信していくために、7空港の明確な個性と役割の分担によって、北海道のすみずみを日本各地や世界と緊密につなげる事業を展開しているのです。

この7空港は、従来は滑走路等の管理・運営者と ターミナルビル運営者が別々でした。滑走路などの管理・運営(空港運営事業)は、国や道、地方自治体が担っていたのです。一方でターミナルビルの運営は、民間企業(主に第3セクター)の担当でした。大づかみでいえば、北海道エアポート(株)は、これらの空港施設とターミナルビルを一括運営することで、北海道全体の観光振興・地域の活性化を図ることを目的に誕生した企業です。

 

空港の業務は、運航を担う「エアサイド部門」と、商業を担当する「ランドサイド部門」に大別されます。エアサイド部門では、運航情報課、保安防災課、灯火電気課、施設管理課というセクションがあります。ランドサイド部門では、航空需要の予測や施設の改修計画を立てる企画部門と、新規就航の誘致や観光開発に取り組む営業部門などがあります。

私は現在、とかち帯広空港の空港運用部、運航情報課で働いています。家族ですっかり気に入った帯広暮らしが続けられたことは、ラッキーでした。

私が担当するのは、滑走路や誘導路などの路面状態の点検、航空機の駐機場などを含めた立ち入りを制限しているエリア(制限区域)への人や車両の立ち入り管理など、空港運用に関わるさまざまな業務です。

もう少し具体的に言うと、滑走路などの状態をチェックする「飛行場面点検」、航空機の駐機場の割り振りをする「スポット調整」、キツネが滑走路に入ると、管制官と密接にやりとりしながら、運動会などで使うスターターピストルを撃って追い払います。またキツネやカラスが嫌いな薬品を定期的にまいたり、地道な作業がつづきます。

 

制限区域にはつねに誘導員や貨物積み下ろし、給油、工事などたくさんの仕事が同時進行していますが、人や車両が立ち入ることを承認したり、夜間にも行われる工事作業の立ち入り調整も行います。ほかに安全管理計画の策定や運用、冬期の雪氷に対する対応なども運航情報課の仕事です。

ちなみに空港に隣接して、パイロットを養成する航空大学校の帯広分校があり、いま放映中のNHKの朝ドラ「舞いあがれ!」の舞台としても登場します。私も現場の受け入れ側としてロケに立ち会いました。

 

空港運営に関わるすべての業務の第一には、事故を起こさないための安全管理があります。空港施設に起因する事故を起こさないためにあらゆる努力をすることが、現在の私の仕事です。

空港運営における安全管理の考え方に、例えば「ハインリッヒの法則」があります。これは1件の重大事故の裏には29件の軽微な事故と300件の怪我に至らない事故がある、とするものです。また「スイスチーズモデル」という考え方もあります。これは中にいくつもの穴のあいたエメンタールチーズをたとえに使って、安全対策にひとつふたつのミス(穴の通過)があっても、すべてで貫通してしまわないように何重もの対策を施すことを求めるものです。

これらの考え方をもとに私たちは、過去の事故事例や危険予測をもとに、さまざまな規程や手順などを空港ごとに策定しています。

ちなみに「ハインリッヒの法則」や「スイスチーズモデル」という安全への考え方は、社会のいろんな局面で応用されている手法ですから、ぜひ参考にしてください。

 

航空機の離着陸は、向かい風が基本です。

航空機は、翼に風を受けて「揚力」を発生させて飛行します。離着陸時は、その揚力を確保するために、原則として追い風ではなく向かい風となるように進入・出発しするのです。例えば南北に延びる滑走路で、北風が吹いているときは、南から北への離着陸が基本となります。

またパイロットは、雑音が混じりがちな無線交信において聞き間違いのエラーを防ぐために、アルファベットでスペリングを伝えるときに、単語に読み替えて発音します。NATOフォネティックコードと呼ばれる通話規則です。A、B、C、D、Eをそれぞれ、AならAlpha、BはBravo、CはCharlie、DはDelta、EをEchoなどとして、「Juliet Alpha Zero Niner Tango Charlie(→JA09TC)」という具合に伝えます。これらも安全運航のための、世界共通のルールです。

 

 

空港運営会社が拓く北海道の可能性

 

 

さて現在の空港運営会社を取り巻く状況はどのようなものでしょう。

コロナ禍によって、一時は多くの航空会社で相当数の減便・路線休止が実施されました。しかし最近は国内線利用者が徐々に回復して、便数も戻ってきました。

また北海道エアポートでは、航空会社に対して着陸料の割引や、国内チャーター便への助成など、観光需要回復を目指した取り組みを行っています。さらに北海道エアポートと小樽商科大学との共同研究として、稚内空港がある道北地域の観光需要の創出や広域の観光流動促進をめざす取り組みも行われました。

 

ここまでの自分を俯瞰すると、航空の仕事は初経験でしたが、過去の旅行業界の知識などを、仕事の裾野としてある程度活用することができました。そしてエアサイド部門の軸となる空港運用部に配属されたことで、貴重な現場経験を積むことができていて、今後のキャリアに繋がると考えています。総合職なのでいずれ異動もありえますが、今の仕事に悔いを残さぬよう頑張る日々です。

 

今回皆さんへの事前レポートでは、道内のいずれかの空港における、 あなたが考える二次交通(航空機の次に使う交通手段)の課題と、それに対する改善アイデアを考察してください、と求めました。ふだんあまり考えたことのない領域の話だったと思います。

解答の例として、あくまで私のアイデアですが、こんなことがあげられるでしょう。

例えば新千歳空港においては、JRの特急との乗り継ぎは隣の南千歳駅に移動する手間がかかります。また、国際線ターミナルでは、ターミナルから新千歳空港駅の間の歩行距離が長いことも問題です。

これらに対して、例えば国内線ターミナル→国際線ターミナル→南千歳駅と楽に移動できるシャトルバスを運行する、という方法があります。国際線ターミナルから新千歳空港駅改札前への手荷物搬送サービスも有効かもしれません。道内をまわって帰路につく際には、逆に、南千歳駅→国内線ターミナル→国際線ターミナルへのシャトルバスが使えるようにします。

ではこれらを実施するとして、誰が運営して費用をどう負担するか。人員の配置、オペレーションに使うスペースの確保、サービスの告知など、再びさまざまな課題を解決していかなければなりません。

この課題は皆さんに、利用者としてなにげなく使っているサービスの裏側を考える機会を提供したく、空港の話に絡めた地上交通をテーマにさせていただきました。

 

 

私のキャリア形成

 

 

現在社会人21年目の私は、商大を卒業してから5社目の会社で働いています。転職回数としては多い部類でしょうか。

スタートが就職氷河期であったことの影響が大きいと思います。就活で私たちは、とにかくまず内定を得ることに必死でした。受かったところに入ろう、という状況で、志望の業界や企業を絞る余裕はなかったのです。私はたまたま自分の志向に沿った就職ができましたが、若者も会社もお互い大変な時代。それでも商大生のときから、ひとつの会社でずっと働くことはないだろうな、という予感がありました。

最初の転職は、外資系企業です。ここでいろいろカルチャーショックがありました。ボスがクリスマス休暇でひと月休む、といったことも驚きでした。でもここは中途入社の人が集まった会社で、転職することへの抵抗感も消えました。

3社目以降、現在の会社もですが、中途入社が多数を占める、歴史の浅い、立ち上がって間もない会社ばかりです。苦労もありましたが、そのぶん面白い仕事をたくさん経験できました。

業界や企業にもよるとは思いますが、私のまわりでは5年くらい勤めたタイミングで転職している人がたくさんいます。現代ではもう、大学を出て就職したらずっとその会社で定年までがんばる、という働き方はスタンダードではありません。だから転職の縁を感じたら、後悔しない選択をすべきだと思います。

 

私は単に好待遇を求めて転職を繰り返したわけではありません。

すべての動機の基盤には、自分が好きな仕事を主体的に選びたい、という気持ちがありました。では私はどんな仕事が好きなのか。

業界で言えば、旅行業、免税店、スタジアム、畜産、空港—。好奇心旺盛な私には、どれも面白い業界でした。

職種では、営業、広報、運航情報と経験しています。広報の仕事が大好きでしたが、今の仕事もたいへん刺激的です。

いろいろな仕事と多くの出会いが私の視野を広げ、成長するための課題や問題意識を与えてくれたと思います。人と関わることが好きな私ですから、内勤で一日中事務所にいて誰とも話さない、といった仕事はきっと苦手です。

「人の笑顔や思い出に関わる」業界で、「社内外の色んな人と関わる」仕事。これが私の天職のようです。

 

自分のキャリアをどのように作り上げていくべきか。

いまの皆さんにはリアルに納得できないかもしれませんが、いつか思い出すことがあるかもしれないアドバイスを贈ります。

まず長く連続したひとつのキャリアはもちろん大切ですが、ともすれば過去の貯金で生きていく社会人になってしまう危険があります。すると、余計なプライドが生まれがちです。

プライドが高い人は、アップデートが出来なくなっていくでしょう。視野が狭まり、上から目線や決めつけが多い「評論家」になってしまう危険があります。

自分の成長を止めないためには、あぐらをかかずに、つねに自己研鑽を重ねて行くんだという意志が必要です。自ら学んで調べたり、上司やまわりに相談する。この積み上げが、意味のあるキャリアを構成していくと思います。

5つの会社で働いてきて、私が優秀だなと感じた上司は総じて 「緻密に仕事が出来る人」、「誠実な人」、「愛情のある人」、そして 「チームワークを重んじる人」でした。私もそこをめざしています。

 

いまこの年齢になって実感するのは、若いときに想像していた以上に、人と人との出会いは、仕事と人生に深く広く繋がっていた、ということです。もし転職するたびにキャリアや人間関係をリセットしていたら、こうした財産は持てなかったでしょう。

向かい風で大きく生まれる航空機の揚力のことに触れましたが、人間も同じだと思います。向かい風を受けてこそ、人は成長して飛躍できるはずです。

今日お話ししたことが、皆さんの学生生活と進路へのヒントになれば、先輩として大きな喜びです。また、今日紹介した、私が関わってきた業界にも興味を持ってくださればたいへん幸いです。

 

 

 

 

<菊地 圭児さんへの質問>担当教員より

 

Q 学生諸君は、飛行機は利用しても空港がどんな組織でどのように運営されているかについては、あまり知らなかったと思います。北海道エアポート(株)は、道内主要7空港の運営を目的に新たに設立されたわけですが、このことがこれからの北海道にどんなインパクトをもたらすと考えれば良いでしょうか?

 

A まず7つの空港と空港ビルの一体経営(エア・ランド一括)によって、航空会社と利用するお客さまの利便性のアップがかなえられます。例えばビジネスジェットの飛来が多い帯広では専用エプロンの整備が計画されるなど、各空港と地域の個性を活かした取り組みが進めやすくなるでしょう。また7つの空港を結ぶことで道内全域の観光需要を高めて、各地域の空港が文字通りのゲートウェイとなって、そこからの周遊観光がより強力に訴求できます。国内外からのお客さまを、北海道全域に送り込むことで、北海道と地域の経済をさらに効果的に盛り上げていけると思います。

 

 

Q この先のご自身のキャリアはどのようにイメージされていますか?

 

A 私は広報の仕事が好きなので、いまの会社でもやがては広報業務に就きたいとひそかに希望しています。また、この先転職することがあるかもしれません。でもいずれにしても私がしたいのは、いろんな人と関わり合って、人が笑顔になるようなビジネスです。その方向は揺るがないと思います。

 

 

 

 

 

<菊地 圭児さんへの質問>学生より

 

Q 自分の進路について、いまの私にはこういう分野に進みたい、と強く思えるものがありません。菊地さんのお話を聞いて、最初の企業に入っても、そこで得たことをもとに転職すれば自分の適性がもっと活かせるかもしれない、と思いました。就活は、転職することを前提に考えた方が良いのでしょうか?

 

A 深めていきたい専門分野があれば別ですが、私の場合はいわゆるホワイトカラーで、転職しやすいキャリアだったと思います。2000年の就活は厳しい氷河期で、ある程度の会社に選んでもらえたらラッキー、そこに決めよう、という状況でした。そうして働いているうちに、もっと良いところがあれば、という気持ちに自然になりました。これが好景気の時代の就活だったら、違っていたと思います。良い出会いや縁を大切にして、それがいまの自分につながっています。時代との縁がありますね。これからの皆さんの時代がどんな時代であるのか。それもよく考えてみてください。

 

Q 前職とは違う分野への転職もあって、いろいろご苦労もあったと思うのですが、新しい環境に順応していくコツのようなものがあるのでしょうか?

 

A 分野の違いや年下の先輩など、確かにとまどうこともありました。でもどんな仕事も、新人なのですから謙虚にコツコツと積み上げていくしかありません。それを続けていくと、まわりが自分の存在や可能性を認めてくれるようになります。今までのキャリアで私は、こういう仕事人にはなりたくないな、という悪い例も少なからず見てきました。自慢ばかりして部下の話を聞かない上司とか(笑)。どんな仕事も、ベースにあるのは人間同士のコミュニケーションです。そこを踏まえれば、仕事でのふるまいは自ずから定まっていくと思います。

 

 

Q 今までの中でとりわけ印象に残っている成功談とかピンチの話を教えてください。

 

A 帯広の牧場会社の時代は、ひとりで広報を担当して、つねにたくさんの仕事が同時進行していました。毎年社員向けの大イベントがあって、それが1週間後に迫ったとき、社長が急遽、山形県で取得する新たな牧場の件を告知解禁して、記者発表を行うことになりました。山形へ出張する移動の飛行機やバスの中で、やってもやっても終わらない仕事と格闘しながら、キーボードを叩き続けていた記憶があります。

私の仕事術として、仕事は自分で見つけて自分で作るものだ、という信念があります。ですから上に命じられてというよりも、もっと主体的に仕事をしていたのですが、その仕事ぶりがピークに達した1週間でした。

 

 

 

<菊地 圭児さんへの質問>担当教員より

 

Q 後輩たちへのエールの意味で、転職というキャリアの選択について、あらためてその考え方のヒントやアドバイスをいただけますか?

 

A かつては、職を替えながら働き続けることが珍しかった時代がありました。しかしいまは違いますね。狭く深く専門分野を持つ人であれば、良い条件を求めて転職を繰り返すこともあるでしょう。私はもっとジェネラリストであったわけですが、アドバイスをするとしたら、それでも「新卒の一社目は大事」、と強調したいです。ここで、その後の仕事観や人間観がかなり作られるわけです。

私は最初に大手旅行会社に勤めて、いろんな先輩や上司と出会い、たくさんのことが学べました。その後のキャリアはみな、広い意味でその延長上にあります。私が就活をした時代よりも今はさらに、多様なキャリア観があると思います。私の今日の話が、学生の皆さんにとって、いつか何かのヒントとして思い出していただければ、先輩としてもうれしい限りです。

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