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2022.11.30

令和4年度第7回講義:岡崎 俊次さん(H7卒)「海外へチャレンジしてみよう」

講義概要(11月30日)

 

○講師:岡﨑 俊次氏(平成7年商学部管理科学科卒/コスファ国際貿易(広州・上海)総経理(在中国))

 

○題目:「海外へチャレンジしてみよう」

 

○内容:

1991年。大阪から小樽商科大学に入学する時点で、私は海外で仕事がしたいと思っていた。応援団で気合いと根性を鍛え、学業では語学力を磨いた学生時代。その後台湾と中国を舞台に、商社ビジネスの最前線でさまざまな経験を重ねてきた。海外で仕事をすることの醍醐味と、そのためにいまから意識しておきたい学びについて、体験的なアドバイスをしてみたい。現時点での中国のコロナ政策の現場についても、独特の国民性にふれながら話題提供をしたい。

 

 

失敗を怖れず、好奇心で未知の世界に飛び込もう!

 

岡﨑 俊次氏(平成7年商学部管理科学科卒/コスファ国際貿易(広州・上海)総経理(在中国))

 

 

 

海外で仕事をしたくて総合商社へ

 

 

私はいま、中国南部、広東省の省都広州市に暮らしながら、化粧品原料に研究開発から取り組む岩瀬コスファという専門商社の、中国の現地法人で責任者を務めています。コロナ禍の影響で、今日は上海のオフィスからリモートで皆さんにお目にかかります。

 

私は管理科学科(現・社会情報学科)を卒業しました。皆さんが生まれていない、いまから27年前、1995年の春でした。どんな時代だったかというと、この夏にPCOS「ウィンドウズ95」が発売になります。それまでPCの多くはDOS/V(ドスブイ)というOSで動いていました。表計算のソフトはエクセルではなくLotus 1-2-3、ワープロは、Wordではなく一太郎です。インターネットへは電話回線と接続したモデムでつながり、ブラウザはネットスケープでした。もちろん回線の速度もいまとは桁違いの遅さです。

部活は応援団で、第78代の応援団長を務めました。加えてプレクトラムアンサンブル(マンドリンオーケストラ)も楽しんでいました。

学業では、入学したときから英語をちゃんとやろうと思っていました。視聴覚室で、よくディズニー映画を見て独習したものです。ディズニー映画は、ハリウッド映画よりも英語がはるかにきれいで聞きやすくて、学びやすいからです。

 

私は高校まで大阪に暮らして、小樽にやってきました。商大に入ったときから、将来は海外でビジネスをしたい、と決めていました。だから就活は総合商社。ニチメン(株)に入りました。まずは東京本社勤務です。

当時海外との連絡手段は、TELEXという、通信文をテレプリンターで伝送する方式から、ようやくE-mailが普及しはじめたころでした。インターネットによって世界の通信環境が劇的に進化した時代です。

入って3年経って、早くも念願の海外に出ることができました(1988年)。赴任先は台湾です。当時草創期にあった台湾のLCD(液晶ディスプレイ)産業で、液晶の原料(当時はまだ電卓などにしか使われていなかったもの)をめぐってドイツのメルク社と激しいシェア争いをしていたチッソ(株)の、営業支援をすることが仕事です。ブラウン管モニタが液晶モニタに取って代わられる時代で、チッソとは、あの水俣病の加害企業として知られる企業です。ほどなくチッソ・ニチメン組は台湾液晶市場を制し、チッソは莫大な利益を得て、のちにこれを原資として水俣病患者への救済補償の目途がついたのでした。

長期出張からはじまって、そのまま駐在することになり、5年ほどいました。現在台湾の液晶技術は世界のトップを走っていますが、まさにその黎明、液晶産業が立ち上がって爆発的に伸長していく、その潮流の中での仕事でした。たいへん刺激的でした。

一方で台湾大地震(19999月)があり、SARS(重症急性呼吸器症候群)の大流行(2003)もありました。台湾社会は騒然としました。

 

2002年から2003年。いわゆる商社危機と呼ばれる事態がありました。平たく言うと、それまでずっと規模を追求していた商社が効率性を重視する時代になり、そのために、膨れ上がった有利子負債をなんとかしなければならなくなったのです。私から言わせれば、借りる方も借りる方だけれど、貸す方(銀行)も貸す方です(笑)。こうしてニチメン(株)と日商岩井(株)が合併して、2004年に現在の双日(株)が誕生します。合併する前、両社の有利子負債は合計3兆円もありました。

 

私はまだ30歳ちょっとの若手で、上司から、とにかく一番若い君から日本に帰れ、と言われます。でも帰っても自分の居場所が用意されている保証もない状態です。それはおかしいだろ!と私は激しく憤りました。同じように言われた若手も少なくありません。会社へのロイヤリティはどんどん下がっていきました。[

 

 

化学製品の専門商社へ最初の転職

 

 

そんなタイミングで、岩瀬コスファ(株)という、化粧品材料の専門商社から、中国事業を強化したいので来てくれないか、と誘われます。BtoBの企業なので皆さんはご存じないと思いますが、歴史ある、この分野での日本のトップ企業です。

 

液晶の素材から化粧品の素材へとモノは変わりますが、海外の第一線で働くことができます。しかも今度は中国でのビジネスです。私は転職を決めました。

困難もありましたが新しい経験が刺激的で、東南アジアや中国でバリバリ仕事をしました。しかし5年くらいたったころ、また転職につながる電話が来ます。チッソ(株)が台湾での液晶工場建設を決断したので、来てくれないか、と言われたのです。初出荷をめぐる営業活動を管理してほしい、と。

自分が過去に全力をかけて勝ち取った台湾市場での競争の結果が、私が転職して去った間に工場建設という形に花開いていたのです。そしていっしょに闘ってくれた人々が、私を忘れ去らずに、また呼んでくれている。そんなダイナミックな展開に再び関わる事には大きな魅力がありました。

 

チッソは2011年にチッソ(水俣病補償)とJNC(事業会社)とに分社化しました。そしてこの年に私はJNCの精密加工品開発室へ異動して、研究所で研究開発段階にあったLiB(リチウムイオン電池)材料の事業化に着手しました。研究所の技術を、収益力のある事業へと育成する仕事です。

この一連の仕事では、モノづくりで研究開発段階から事業化へと進む際に乗り越えなければならないいくつもの障壁(魔の川/死の谷/ダーウィンの海)を、体験的に学びました。私は満足しながら忙しく働いていたのですが、あるときまた私の携帯電話が鳴ります。前にいた岩瀬コスファ(株)の上司からでした。当時の私の先輩が身体を壊してしまいたいへん困っている。戻ってきてはくれないだろうか、と言うのです。

 

さすがにそれはない、と思いました。心情として、一度出て行った者がまた戻るのは、恥ずかしい気がしたのです。ですから一度は断ったのですが、妻に、そこまで言ってくれるのならよっぽど困っているのだろうし、あなたのことをよっぽど必要としているのだから、戻るべきじゃないの、と説得されてしまいました(笑)。

それで前の会社に戻り、東南アジアと中国などの営業を担うことになりました。

2019年からは中国に渡って、子会社のCosfa International Trading 広州と、Cosfa International Trading 上海のトップを兼任しています。

 

 

中国でのゼロコロナ政策と日常

 

 

中国にはいま言った広州と上海のほかに、規模が小さい(4名)北京の事務所(上海事務所の子会社)があります。北京では北京語を使い、生活はホテル暮らし。寒いので北京用の服装が必要です。

上海事務所には 28名いて、言葉は上海語。ここでもホテル暮らしです。営業、研究開発、物流、財務、総務と、フルの商社機能があります。

広州事務所も上海と同じ陣容で、言葉は広東語です。同じ中国語でも、この三カ所ではかなり違う言葉が使われています。私が話すのはいわゆる標準的な中国語ですが、それでコミュニケーションに支障はありません。

 

そもそも北の北京と南の広州では1900キロくらい距離があります。私が単身赴任で暮らしているのは広州で、北京よりもずっと暖かい南国です。毎月この3カ所を移動して仕事をしていますから、食材を買い込むこともなく、自炊はほとんどしません。

私以外はみな中国人です。日本の本社から見れば私が中国のフロントエンドで、中国の情報を集める橋頭堡です。報道やインターネットに上がる前の段階の情報を集めて本社などに発信します。

また逆に言えば中国の社員たちも、日本へのフロントエンドを職場で体験していることになるでしょう。

展示会やホテルでのセミナー、などをこんなふうに(写真提示)に行っています。また近年は中国でも、CSR(企業の社会的責任)やSDGsを軸にした企業活動を行っています。

 

さて皆さんは報道などでご存知だと思いますが、現在の中国では依然としてゼロコロナ政策が行われています(本講義が行われた時点)。国家は国民を厳しく管理しているわけですが、その根底には、荀子(紀元前の思想家)が唱えた「性悪説」があります。人間の本姓はあくまで悪なんだという考えです。だから厳しい監視社会が成り立つのです(この対極が、孟子の唱えた性善説)。インターネットを行き交っている膨大な情報も、私は監視されていると考えています。地下鉄に乗るだけでも、その前に全員がカバンの中をチェックされます。

 

入国すると必ず隔離をくらいますが、ごらんのような(写真提示)まずそうなパンとかおかずが与えられます。また健康チェックをちゃんとしているかどうかをバーコーをかざすことでチェックする仕組みがありますが、これが北京と四川、大連、上海と大都市を移動するたびに新たな登録が必要で、たいへん煩わしいのです。私のような外国人にはそれがよけいに厳しい負担になります(中国人であればマイナンバーカードのような共通の仕組みがあります)。

また、これらの行列の写真のように、人々はなんと毎日毎日PCR検査を受けなければなりません。大都市では24時間検査が可能です。歩道にテントを張っているような簡易的なものも含めて、上海では15000カ所以上の検査所があります。ここまでくればまるで、トイレに行ったり風呂に入ったりする、生活習慣の一部なのです。

 

食生活では、人々は、皆さんが考える中国料理よりもはるかにバラエティ豊かな食材やメニューを好んでいます。例えば四川省ではウサギの頭をたこ焼きみたいに何個もつまむ感覚です。なぜ頭ばっかり食べるのかといえば、カラダはフランスに輸出しているのでした。お酒は、白酒(ばいじゅう)などを小さなグラスでどんどん、グッと飲み干していきます。

 

 

海外に挑んで自分を磨く

 

 

皆さんの中には、将来海外で働いてみたい、と考えている人もいると思います。その働き方はいくつかあります。整理してみましょう。

まず「日本の企業・団体などの駐在員」。

報酬は安定して高く、企業経営を実践的に学べます。一方で勤務地は自由にならず、会社が決めます。でも私は、現実としてこの方法をいちばんおすすめします。

次に、「現地企業採用」。給料はあまり期待できません。現地の通貨ですから為替次第です。働きがいとしては、海外企業の厳しさが丸ごと学べるでしょう。勤務地は、自分が選んで決めることができます。

三つ目は、相当ハードルが高くなりますが、外国でフリーランスの職業人となること。ライターとか通訳などが考えられるでしょうか。報酬は総じて安くて不安定でしょう。自分のやる気と実力次第ですが、他人に理解してもらえないかもしれません。勤務地も職業も自分で決めます。私としてのおすすめ度は、いちばん低くなります。

 

中国に来た時の私の語学力といえば、英語はTOEIC 730くらい。スペイン語検定4級。肝心の中国語は全く学んだことがありませんでした。

現在の私は、英語はTOEIC 880くらい。スペイン語はかなり離れていますから、あやしいかもそれません。中国語に関する検定は受けていませんが、ビジネスの現場で不自由はありません。現在は、香港や東南アジアにいくときを除けば、生活で英語を使うことはほとんどありません。

 

今日私は皆さんに、「海外に出て仕事をしよう!」と呼びかけています。その理由や根拠を説明します。

もともと日本は資源の乏しい島国国家であり、海外との連携なくしては国が立ち行きません。だから絶対に海外と接触を続ける必要があるのです。あらゆる手段でさまざまなものを売り買いする必要があります。しかしそれは簡単なことではありません。担う人々には大いなるチャレンジが求められます。そしてその課題に挑む人たちには、自分を磨くすばらしい機会が与えられるでしょう。

そのあたりを理解してもらうためには、NHK WORLD JAPANというNHKの国際サービスのサイトで、2019年に弊社が取材されたコンテンツが参考になります。ぜひ見てみてください。URL https://www.jibtv.com/programs/catch_japan_2019/20191226.html

 

私がいちばんおすすめする海外での働き方である、「日本の企業・団体などの駐在員」。私もそのひとりですが、彼らはどういうふうに仕事をしているでしょう。

駐在員は、部下が外国人でクライアントも外国人。つねに外国語(現地語)で業務をします。私の場合、自分以外は全て中国人(日本人1:中国人60)、会社は2つ。言葉は、上海語と広東語を使います。日本の本社から見れば、外国とのフロントエンドを担う役割です。

駐在員は、事業で売上と収益を継続して得るために部下の外国人を評価し、議論をします。ときには衝突があり、解雇のような措置が必要なこともあります。また駐在員のいる出先では、現地情報を確保して発信します。重要なのは、インターネットに出てくる情報の原点となる種類の情報です。それらを行うのが私の仕事です。

社会的価値のある活動をしなければ、企業は永続できません。さらに企業が外国に進出して活動するには、独自の価値をもつ、いわばとんがった技術や商品が必要です。例えば皆さんも聞いたことがあるだろう台湾の半導体メーカーTSMCには、いま2ナノレベルの超先端半導体の技術があります。日本はもとより中国や韓国、米国を大きくリードしています。

 

事業では、小手先のことではなく、正論であることが重要です。そして短期的に収益を上げて、難しくなったらサッと撤退する、ということではなく、それが地域に根ざした産業の一脈として着実に成長していくことが望まれます。さきほど上げた台湾の液晶産業のような例ですね。

発展途上国であれば、未熟な産業が多いものです。逆に言えば、そこで新たに事業や産業を創出できるわけです。

 

私は現在、家族を日本に残して中国に単身赴任しています。単身赴任の場合、日本の家族に大きな心労や負担をかけます。 妻は、ずっとワンオペで家事と育児に奮闘してきました。妻の支えがあってこそ海外駐在ができる。残念ながらそうした例は珍しいことではありません。特にコロナ禍によって、日本との往来がとても厳しくなり、家族の暮らしにとっては苦しいことばかりです。

実は私の一番下の息子がこの春小学校を卒業したのですが、私は卒業式に出ることを楽しみにしていました。しかし大連に前泊して翌朝発とうとしていたら、ホテルの部屋に朝5時に乱暴なノックがあり、あなたはコロナウィルスが蔓延している上海から来たのだからいまから2週間ここから出られない、と言われてしまいました。冗談じゃない!と反論しても当局の指示は絶対です。翌日せめて父としてお祝いの手紙を出そうと思ったのですが、それもダメだと言います。仕方なく、便せんに直筆でメッセージを書いて、それを写真に撮って送りました。隔離期間が終わると広州に戻って準備し直して、ベトナム経由で帰国しました。いやはや、まいりました。

 

 

自分はいかにあるべきかを考える

 

 

優秀な駐在員であるためには、つねに自らを俯瞰して客観視することが必要です。

私は、中国の社員、そして中国の社会から自分の行動がいつも監視されている前提で暮らしています。その中で、いわゆる日本人らしい謙虚さや美徳、習慣を失ってしまわないように意識しています。

台湾でも中国でも、モーレツ社員がいます。すごい熱量をもって迫力を感じる仕事をする人が、かつての日本には少なくありませんでしたが、いまはむしろ海外の方にそういうタイプのビジネスマンがいると感じます。こちらが夜中過ぎに送ったメールに、30分後に返信が来るような人たちです。

それと、これは当然ですが、語学に堪能であれば海外で仕事ができる、というわけではありません。ビジネスを成り立たせるためには、その背景や基盤にある歴史文化、その国の流儀を身につけなければなりません。もちろん、そもそも人としての素養も問われるでしょう。

 

私は皆さんに、「海外に出て仕事をしよう!」と呼びかけていますから、いま大学で学んでいることがビジネスの社会でどのように応用されていくか、方向を示してみましょう。

まず語学。

学生時代、私は中国語を勉強していませんでした。台湾・中国での仕事の必要に迫られて必死に取り組んだのです。最初のころ、こちらが言葉に不自由だとわかると、いろいろ腹の立つ思いもしました。タクシーの運転手にごまかされたり。「騙されたくない!」という思いが私を必死にさせました。

そして、経営学。

私の仕事では、ビジネスの方針策定、目標管理、組織や事業づくり、人材育成、生産性向上、そういったことに取り組むベースに経営学があります。

会計学は、収支のチェック、法人ごとの収益力分析、配当といった分野に関わります。

商学なら、貿易実務や企業与信。

情報システムであれば、企業情報ネットワークの構築、情報セキュリティ、WEBサービス。

経済学では、基盤となるマクロ経済統計の活用からミクロ販売価格戦略、価格弾力性など。さらには、文化の違い、国民性や気質の差異などと向き合うためには、文化人類学の知見が必要です。徹底した監視社会である中国という国の根底には、荀子の性悪説の思想がある、と先に述べました。

 

小樽商科大学を卒業した先輩の中には、いま現在上海で活躍されていらっしゃる方たちがたくさんいます。皆さんもご存知の緑丘会には、中国上海支部があるのです。定期的に集まって親交を深め、切磋琢磨しています。そして写真でご覧いただいているように、上海では小樽ビールが飲める店もあります。

 

では私の講義のまとめに入ります。

いちばん言いたいことは、繰り返しますが、「海外にチャレンジしてみよう!」です。

語学力を身につけて、実際の仕事と生活で最大限活用してみましょう。そしてさらに磨きをかけましょう。どんな世界にも上には上が必ずいるのです。

海外で働くと言っても、まず日本で企業や団体に就職して海外駐在することをおすすめします。そうすれば企業や組織の経営や運営、マネージメントが深く体験として学べます。

 

何事も好奇心が原動力です。未知の世界に飛び込みましょう。失敗を怖れることはありません。なぜなら、誰でもどうせ何かで失敗しているからです。もっといえば、世界は壮大な失敗のかたまりです。だから紛争や戦争が絶えないのです。あなた一人が失敗を怖れても世界に何の影響もありません。

といっても、自分のことは自分で守らなければ、誰も助けてはくれません。自分の行動を、自分で立てた規律に従ってコントロールしましょう。それが「自律」です。

他の誰のものでもない、あなたの人生です。君がやらなくて、誰がやるのか!? 険しい道だからこそチャレンジしましょう!

 

 

 

<岡﨑俊次さんへの質問>担当教員より

 

Q 今日は事前課題としてたいへん深い論点を示していただきました。

「学生生活や仕事などひとつの観点を選んで、母語(日本語)を日常的に使っていることの意味や価値を考察せよ。さらに国内外の情勢を踏まえて、それが10年後にどうなっているかを想像してみよう」、というものでした。岡﨑さんご自身の見解を聞かせていただけますか?

 

A 私たちは、親たちの使う日本語の中に生まれてきました。この言葉でできた社会をこの言葉によって知り、日本人の世界観や自然観、人と人の関わり方などを学んできたのです。日本語を探求していくと、日本人がどんなことを大切にしているか、心を通わせるためにどんなことをするかなど、美しく多様な表現の中に、社会のすみずみを構成している要素が見えてくると思います。日本人が作り出してきたすぐれたモノをはじめ、ビジネスの裾野や背後には、そうした日本語の世界があるのです。それが、世界に揺るぎない個性です。

一方で、人間は太古から争いを繰り広げてきました。ご承知のように現代でもまだ武力戦争はなくなっていませんが、争いの主な舞台のひとつは経済です。経済戦争もまた、強いものしか生き残れず、弱い者は徹底してやられてしまいます。これから先の日本はどう戦っていけるかを考えると、残念ながら日本には、「これなら勝てる!」というカードがほとんどありません。経済で負けていくということは、日本語が作った歴史文化も衰退していくでしょう。私はそこがいちばん大きな問題だと考えています。

文化の基盤を豊かにしなければ、経済戦争は戦えませんし、その逆もまた真です。実際に悲惨な戦争がなお起きているこの時代であればこそ、皆さんには、当たり前に使っている母国語がこの先、経済と共に危機を迎えるかもしれない、ということまでを考えてほしいと思いました。

 

 

Q いわゆるグローバル人材になるためには、語学をマスターすればよい、という単純なものではないということを示していただきました。世界のビジネスの世界で活躍するためには、まずどんな心構えが大切でしょうか?

 

A 何ごとにおいても、ひと通り説明すれば相手はわかってくれるはずだ、と思っていてはダメです。出自の異なる人間同士、単純にわかり合えるわけがありません。どうせダメなのです。だから戦争が起こるのでしょう。その中で、自分のことをねばり強く緻密に、相手の目を見ながら訴え続ける力が大事だと思います。そういう態度から、言葉にできないようなレベルの深いコミュニケーションが生まれると思います。相手に興味をもって、相手のことをもっと深く知りたい—。そう思えば、相手の言葉やふるまいに一生懸命注意を向ける姿勢が自然に生まれます。こうしたことは学生生活の中でも実践できることです。意識してみてください。

 

 

 

 

<岡﨑俊次さんへの質問>学生より

 

Q この先、あるいはこれまでの台湾や中国でのご経験以外に、仕事をしてみたい国、ビジネスをしたかった国がありますか?

 

A 迷わず、インドです。インドという大国には、まだまだ夢があります。国や社会に足りないものも多くありますが、彼らにはそれを克服していこうとする強い勢いを感じます。ビジネスマンたちの目を見ればそれがわかります。また、単なるビジネスではなく、産業の単位で新しいことが起きて成長していく可能性を強く感じます。

 

 

Q 就活で商社を希望したことにはどんな動機がありましたか?

 

A 大阪から小樽商大に来たときから、将来は外国で仕事をしてみたいと思っていました。根にあるのは、どこか遠くに国に行ってビジネスをしたみたい、という素朴な好奇心ですね。商大の先輩からのリクルートもあって、ニチメン(株)に入りました。

 

 

Q 当初中国語はぜんぜん話せなかったとおっしゃいましたが、不安でしたか?その不安をどのように克服していったのでしょうか?

 

A 不安はあまり感じませんでした。鈍感なのでしょう(笑)。とにかくどうせできない状態なのだから、やるしかありません。誰も助けてくれませんから、自分でやるだけです。こうした胆力や根性は、応援団で鍛えられたのかもしれません。

 

 

Q 岡﨑さんは現在専門商社にお勤めですが、総合商社が活躍する時代は終わった、などと聞くことがあります。ほんとうでしょうか。どう思われますか?

 

A 一般論として。ふつうの会社がある日ある国の会社から何か大きなものを買おうとするとき、はじめはまず相手にされません。これは天然資源のような巨大なビジネスであればなおさらです。どんなに優秀な営業マンがいてもダメで、それは大きな組織と組織、あるいはこちらと向こうの社会(政治経済体制)との長い時間をかけて作り上げた関係がなければ成り立たないのです。そして、そうした関係ができるのには、百年以上の時間がかかるでしょう。つまり百年以上にわたって安定した関係を維持し続けるだけの資本やノウハウの基盤が必要です。そうしたことが可能なのが総合商社であり、分野をしぼった専門商社です。それは、単にサプライチェーンに乗ったディストリビューター(卸売業者や販売代理店)の世界とは違う領域です。

 

 

Q お仕事のやりがいはどんなところで感じますか?

 

A 例えば1年2年コツコツと努力を積み上げてきたものが、あるときを境に劇的に動き出すことがあります。開かなかった鍵が突然カチャッと開くと、それまでとはまったく違う世界が広がって、投資したものが何万、何十万倍にもなるのです。私はそれを、台湾での液晶ビジネスで体験しました。1993年ころの台湾は、国策として液晶産業の育成に力を入れ始めて、私たち(台湾チッソ股分有限公司)はいち早く取り組みを開始していました。その成果が出はじめた最初は、開業間もない台湾新幹線(台湾高速鉄道)の車中で携帯電話で受けた、300gの液晶素材のオーダーでした。そこからまもなく工場建設が着手され、あっという間に巨大なビジネス、さらには産業が生まれました。忘れられない経験です。

 

 

Q 応援団で得たことを先ほどおっしゃいましたが、ほかにどんな影響を受けましたか?

 

A 就活のとき私はどこの面接でも、「気合いと根性と語学力」で負けません、とアピールしました。自分がもっていたのはこれだけでしたから(笑)。そうした確信というか信条を得たのは、やはり応援団の活動でした。私の同期には、個性豊かで優秀な仲間たちがいました。彼らと切磋琢磨できたことが、一生の財産になっています。

またビジネスの現場ではいまでも、こちらから名乗る前に、あなたは小樽商大で応援団長を務めたのですね、とよく言われます。まわりはそういう目で私を見てくれるのです。うれしいことです。

 

 

<岡﨑俊次さんへの質問>担当教員より

 

Q 最後にあらためて、後輩たちにメッセージをお願いします。

 

A 今日の演題である「海外へチャレンジしてみよう!」。これに尽きます。皆さん小樽商科大学の学生なのですから、どこに出ても自信をもって、根性を入れて自分を磨き続けてください。磨きしろはたっぷりあるはずです。そしてどうぞ先輩たちの力も、遠慮せず使ってください。私たちは皆さんをしっかり磨いてみせます。

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