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2015.11.04

平成27年度第4回講義:「製造業における『物づくりの心』」

 

講義概要

 

○講師:渡部 猛 氏(昭和46年 商学部管理科学科[現 社会情報学科]卒業)

 

○現職等:大阪市教育委員会(元松下電器産業)

 

○題目:「製造業における『物づくりの心』」

 

○内容:科学技術の発展の意味や可能性をとらえ直し、パナソニックの物づくりとそこに底流する松下幸之助の事業哲学を概説。物づくりの価値や魅力を考えてみる機会を提供したい。そして物づくりの裾野にあるべき世界観をひもときながら、障がいのある人々との出会いを通して考えを深めた、人間にとっての仕事の意味などを説きたい。

 

講師紹介

 

1948年札幌市生まれ。

 

北海道札幌開成高等学校卒業。1971年小樽商科大学商学部管理科学科(現 社会情報学科)卒業。同年松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)入社。人事部門および資材部門の責任者(部長職)を歴任。2004年松下エクセルスタッフ(株)へ出向。2008年パナソニックエクセルスタッフ(株)シニア事業部部長。2010年パナソニックエクセルアソシエイツ(株)設立・取締役。2012年より大阪市教育委員会嘱託職員・ジョブアドバイザー

 

科学技術の発展は想像を越える

 

松下電器産業は2008年にパナソニックと社名を変更しました。そのときに「この夢が未来」というグループソングが作られたのですが、それはこうはじまります。「遥か先人が 描いた未来に 今 私達は生きてる♪…」。

 

いまから50年前、そして150年前を考えてみましょう。例えば照明では、ろうそくだったものが電球になり、やがて蛍光灯が作られ、さらにLEDが生まれました。150年前、幕末の人たちがいまのLEDを想像できたでしょうか?

 

鉄道はどうでしょう。大阪・東京間は、江戸時代ならふつうの人は歩くしか移動手段がなく、20日〜30日を要しました。明治20年代に東海道線が全通してそれが劇的に縮まります。当初は蒸気機関車です。SLはやがて電車になり、1964年には新幹線が登場した。いま大阪から東京へは、わずか2時間半で行くことができます。

 

通信の世界では、インターネットのおかげで世界中のどこでも誰とでも手軽にコミュニケーションがとれます。でも江戸時代、大阪から東京への手紙は、いくら速くても3日以上かかりました。健脚自慢の飛脚がインターネットを想像できたでしょうか?

 

科学技術の進歩は、人間の想像をはるかに越えています。これから50年後、150年後に世界がどうなっているのか。今の私たちには予想のしようもないのではないでしょうか。もちろん、科学技術がもたらしたのは幸福ばかりではありません。しかし、私は科学技術と物づくりの未来にやはり大きな希望を託したいと思います。

 

 

パナソニックの物づくり

 

松下幸之助がパナソニックを創業したのは1918(大正7)年です。いまでは世界に25万人以上の従業員(国内に約10万人)が働き、家電、住宅、オートモーティブ(自動車関連)、B to Bソリューション、デバイスという5つの分野で、売上高は約7兆7千万円以上を数えます。

 

多岐にわたるパナソニックの物づくりですが、源流は家電製品にありました。1950年代から60年代、家庭用の冷蔵庫や洗濯機、掃除機がつぎつぎに発売され進歩していきました。これらはみな当初、世の中にはじめて登場するものでした。「こんなものがあったら、人々はみんな喜んでくれるにちがいない—」。松下幸之助と開発者たちは、そういう気持ちで仕事に取り組みました。

 

松下幸之助が1933(昭和8)年に早くも取り入れていたのが、事業部制という組織形態です。これは製品ごとに開発・生産・販売までを一貫して行う独立した組織をつくること。最盛時には127の事業部があったのですが、やがて、組織間に重複するムダも目立つようになり、大幅に整理されていきました。

 

しかし近年はこれが復活して、いまは36の事業部があります。なぜ復活したのかというと、結局、「マーケティング」「商品企画」「開発」「生産」「販売」という物づくりの重要な工程は、緊密に一体とならなければ良い仕事ができないからです。

 

具体例をあげましょう。私がアイロン事業部にいた時代、日本ではじめてコードレスアイロンを売り出しました。開発にはさまざまな試行錯誤ありました。アイロンは大きな熱容量が必要ですので、コードで通電していなければ十分な蓄熱ができないのです。

 

一方で営業セクションでは、アイロンを上手にかけるための教室を各地で開いていました。この模様を録画した映像を見て、技術者たちは目を開かれました。彼らは、アイロンは「かける」と「置く」、というふたつの動作に分けられることをあらためて認識します。そして、かけるよりも置いている時間の方が長い。かけるのは余熱で十分である。だから通電するのはスタンドに置くときだけで良いんだ、と気づいたのです。技術者だけではできない発見でした。

 

松下幸之助の物づくりの心

 

パナソニックの物づくりには、いまも松下幸之助の精神が脈々と息づいています。大切なことの核心だけをお話します。まず、「企業は社会の公器」であること。私利私欲にとらわれてはなりません。そして、「物事の実相を見る」こと。一方的な主観や先入観にしばられず、物事のありのままの姿を見ることが大切です。さらに、「融通無碍(ゆうずうむげ)」の精神。見方や考え方を、時に自在に変えていけること。

 

具体例で説明しましょう。幸之助の物づくりは大正中期、電球用のアタッチメントプラグや2灯用差込プラグにはじまりました。昭和のはじめには、アイロンを開発します。この時代アイロンはすでにありましたが、価格が高くて庶民には手の出しづらいものでした。そこでなんとか3割安く作れないか、という挑戦がはじまります。この動機は、安いアイロンがあれば「売れて大きな利益が出る」というよりも、「みんなが喜ぶはずだ」というもの。技術革新に加えて大量生産によって価格を抑えるために、思い切った量産体制を整えました。これが世の中に受け入れられたのです。

 

また1931(昭和6)年にはラジオを発売しました。ラジオも先行商品はありました(日本のラジオ放送開始は1925年)。しかし壊れやすく、ちゃんと修理できる店でしか売れなかった。それが普及を妨げていたのです。他社と提携しようとしたのですが、そこの社長は幸之助に、「故障しないラジオなんてできるわけがない。素人はわかっていない」と言い放ったそうです。幸之助らは発奮しました。そして、三球式ラジオとよばれるラジオが完成したのです。このとき、ある発明家が持っていた特許を買い取り、それを無償で開放しました。これによってラジオ業界全体が受けた恩恵ははかりしれません。

 

このように、新製品の開発や技術革新のために何より必要なのは、目先の私利私欲を越えたところに根ざす強烈な「使命感」です。そして使命を達成するためには、先入観を捨てて「物事の実相を見る」ことや「融通無碍(ゆうずうむげ)」の精神で壁に立ち向かうことが大切なのです。「ピンチこそチャンスなんだ」という認識も幸之助が繰り返し唱えたことでした。

 

物づくりの魅力とは

 

創業当初から幸之助はこう言いました。「松下電器は何を作るところかとたずねられたら、『人をつくるところです。あわせて電気器具もつくっております』とお答えしなさい」どんなに大資本を持ち、どんなにすばらしい技術や機械設備があっても、それを使いこなす人間たちがお粗末であったなら、何もできない。社会の役に立つという志や使命感が、人間を強くして成長させる。そうした人間が集まってこそ本当に価値のある物づくりができるのだ、という信念です。

 

これらのエッセンスをまとめると、まず「社員稼業」(自主責任経営)という言葉になります。社員ひとりひとりが与えられた仕事を自分の稼業と考えて、自分はその主人公であると考えるのです。そして、「衆知を集めた全員経営」。個人が力をフルに出し合い、その上で惜しみなく協力し合いながらひとつのことに当たること。

 

インターネットと人工知能が製造業を変えていく「第四次産業革命」といった考え方がメディアを賑わせています。しかしそうした時代になっても、いやむしろそうした時代だからこそ、幸之助が繰り返し唱えたこうした哲学が輝き、重要になってくると思います。私が現場で感じ、考えてきた物づくりの魅力をまとめると、次のようになります。

 

●今までにない新しい価値を創造し、人々に感動や感激を与えることができる

 

●開発、生産、販売ほかすべての部門が関与でき、事業の一体感がある

 

●それそれの努力、苦労、素直な心の成果が目に見える

 

●「物づくり立国」日本に貢献できる

 

●世界中の人々の「くらし」の向上に貢献できる

 

 

パナソニックの経営理念と障がい者雇用

 

人間を尊重する企業として、パナソニックでは障がい者(身体・知的・精神障がい者)の雇用にも取り組んできました。そもそも松下幸之助は、仕事についた最初から障がいのある人と関わりを持っていました。

 

幸之助は少年時代、船場(大阪)の五代自転車店に奉公に入りますが、主人の五代音吉の兄五兵衛が、視覚障がい者だったのです。自身も貧しい家で生まれた幸之助は、社会的に弱い人へのまなざしを生涯にわたって強く意識していました。

 

私自身の経験をいえば、アイロン事業部で人事を担当していたときに、こんなことがありました。耳の不自由な青年が、コミュニケーションが取れないのでもう辞めたい、と言ってきたのです。これではダメだと思い、私は手話を学ぶことにしました。社内でも手話勉強会を開き、会社の文化祭では手話演劇にも取り組みました。

 

こうした過程で、私はノーマライゼーションという考え方を知ります。障がいのある人もそうでない人も、共存してひとつの社会を作ろう。それこそがノーマルな社会なんだ、という理念です。深く考えれば障がいのあるなしの境界分けもむずかしくなりますし、自然界を見ればわかるように、世界にはとにかくいろいろな生きものがバランスを保って生きている。

 

生態学では多様性の意味や価値が研究されていますが、人間の社会も同じです。さまざまな人間がいてはじめて全体として強く安定して機能することができる。弱い人だけの社会や強い人だけの社会があるとすれば、それは自然本来の成り立ちとは異なるものでしょう。

 

パナソニックを定年後、私はグループ会社である人材派遣会社に移りました。2年あまりいて、そこからさらにグループの特例子会社「パナソニックエクセルアソシエイツ」の立ち上げに関わります。特例子会社とは、従業員の大半が障がい者である会社です(グループに8社あります)。創業メンバー15名のうち12名が障がいのある人でした。業務内容は、印刷やデータ入力といったオフィス仕事と、清掃、パン・クッキーの製造・販売、そして農園で野菜を作ること。どんな人にも、社会のためにできることがある。この会社はそうした理念で起業したのです。

 

そんな経験の延長として、私は2年前からは、大阪市教育委員会の嘱託職員として、知的障がい者が働ける場づくりのお手伝いをしています。

 

人は何のために働くのか

 

障がいのある人たちと日常で接していて、私自身たくさんのことを学び、考えてきました。まず、働くという漢字は、人が動くと書きます。ですから世の中のほとんどすべての人は、毎日働いていることになる。老若男女、もちろん障がいのある人もです。

 

職業としての仕事で考えると、仕事で得られるのは給料だけではありません。働く場には仲間ができるでしょう。難しいことに挑戦すれば、その過程でその人はきっと成長していける。挑戦が実ったときの喜びは、なにものにも代えがたい財産になります。そうした努力の動機づけになるのは何でしょう。

 

私は、それは個人の満足や喜びの先にあるものだと思います。つまり、松下幸之助が「素直な心」を唱える中で強調する、「私利私欲にとらわれない、社会へ貢献する気持ち」です。どんな人でも、たとえどんなにささやかでも、その人なりに社会に役立つことができます。このことが働くよろこびになるのです。

 

大会社の社長も新人も、学校の先生も生徒もみな同じです。人はどんな人からも学び合い、影響を及ぼし合っている。だから自分のまわりのすべての人々に感謝の気持ちをもって、生涯学んでいきたい。私はそう思い、このことを特別支援学校の生徒さんや先生たちにも呼びかけています。

 

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