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エバーグリーンからのお知らせ

2016.10.12

平成28年度第1回:開講30年記念企画「エバーグリーン講座U30〜10年後のジブンを描く〜」

概要

 

○講師:小林裕介氏(平成21年商学科卒/日本デイリーネット株式会社・緑丘会会報委員)、菊谷洋介氏(平成23年商学科卒/三菱重工業株式会社)、寺下友香梨氏(平成24年経済学科卒/株式会社リクルートコミュニケーションズ)

 

○題目:「10年後のジブンを描く」

 

○内容: エバーグリーン講座は今年度で開講30 年。その記念として、かねてより受講学生からの要望のある若手OB・OGが登壇。「エバーグリーン講座U30(アンダー・サーティ)」と題して、現役の商大生が「10 年後の自分」を具体的にイメージできるように、3人の卒業生がキャリア構築の実践論を語る。各先輩3人のトークと合わせて、社会や仕事への動機づけとなるパネルディスカッションを展開する。

 

「まさか こんな社会人になるとは?!」〜小林裕介氏(平成21年商学科卒/日本デイリーネット株式会社・緑丘会会報委員)

 

高度な進化を重ねる食品物流の世界

 

卒業して日本ハムグループの日本デイリーネットという物流の会社に勤め、今年で8年目になります。このあいだ30歳になりました。所属は営業統括室ですが、仕事は幅広い分野にわたります。
商大時代に熱中していたのは、圧倒的にバンド活動でした。いま写真を見ると笑えますが、肩までかかるロン毛でした。今日は「~まさか こんな社会人になるとは?!~」とタイトルをつけましたが、そんなギャップのことをお話ししたいと思います。
 
まず仕事とその業界のこと。 日本デイリーネット(株)は、日本ハムの製品(シャウエッセンなどの加工食品、精肉など)を全国に出荷しながら、数年前からはそのノウハウを活かして、ほかの食品メーカーさんの物流も担っています。売り上げは141億円ほど。従業員は約700名です。 物流業界というと倉庫業や運輸業のことだと思われるかもしれません。しかし現代の物流はもっと複雑で高度なシステムの世界です。ご承知のように日本は人口が減っていく時代に入っています。高齢化もさらにいっそう進んでいる。つまり胃袋の数が減って、食べ物の消費量が縮小しているのです。ですからいまは、食品メーカーがコストを非常に重視する時代。
 
そのために規模や効率を求めてM&Aやアライアンスが志向されています。アマゾンさんやアスクルさんなど、新規参入もある。一方で食の安全と安心を求める声はますます高まっています。おいしく高品質の食品をいかに効率良く販売の現場やご家庭に届けるか。私たちの業界はいま、そのための創意工夫や進化がしのぎを削る、高いレベルの業界だといえます。皆さんは日本ハムというとハム・ソーセージのメーカーだと思っていることでしょう。しかし実は売り上げの半分以上は食肉です。わずかですが乳製品や水産物も製造しています。日本ハムは、ブタなどの飼育から解体処理、加工、流通までを一貫して行う専門企業ですが、当社はそのうち製造と販売をむすぶ物流部門を担っているわけです。

 

仕事は自分でつくるもの

 

さて最初に言ったように、私の商大時代の中心はバンド活動でした。バイトもずっと楽器店で。プロの前座でライブをしたり、インディーズでCDを出したり、ツアーも行いました。楽しい毎日でした。でもそんな調子ですから、ゼミは大矢繁夫先生のゼミですが、何を学んだかを聞かれると冷や汗が出ます(笑)。就活の最初に漠然と思っていたのは、北海道から出たくないなぁ、ということ。しかし入社してからの私を振り返ると、北海道を出まくりでした。赴任したのは茨城、神奈川、大阪、愛知、東京。いまは2度目の関東暮らしです。経験した部署も、経営企画、営業、人事業務監査、物流システム運用、債権管理と多岐にわたります。転勤は基本的に、自分が行きたいところ、経験したいことに照準を合わせて、自ら進んで実現させてきました。
 
現在は営業統括室の係長ですが、自分なりに目標針路として掲げている3本の柱があります。ひとつは、5年後に全社の売り上げを二倍にすること。これは経営企画ですね。そして、お客さまのさまざまな問題を、物流の視点から解決していくこと。これは営業の仕事。さらには、いっしょに働きたい仲間さがし。これは採用や教育に関わることです。私は、仕事は与えられるものではなく自分で作るものだと考えています。だからこの3本にそって自分で仕事をつくり(もちろんワンマンプレイではなくまわりとの協働が大事ですが)、どんどん全国をまわり、必要とあらばトップにもいろんな提案をします。
当社は社長に対してそういうこともできる会社なのです。
 
例えば以前、採用や教育には体系だった戦略や手法が欠けていると感じていました。そこで私は提案を上げて、全国の現場の若手が関わることができる仕組みをつくりました。いっしょにがんばる仲間さがしです。自分の力で会社を変えて進化させていく。この面白さにめざめて、30歳まで突っ走ってきた。そう言えると思います。入社後3年くらいは、目の前の仕事で精いっぱいでした。まわりが見えるようになると、資格をとりました。MBAや中小企業診断士、M&Aシニアエキスパートなどです。ほどなくして、緑丘会の委員になりませんか、と声をかけていただきました。恩返しのつもりで快諾しました。会では、ふだんの仕事では出会えない世界のたくさんの先輩たちと交わることができます。また緑丘会以外でも、全国にいるOBOGと仕事で出会うと、互いにとても親近感がわきます。それが売り込み先だと、それだけで心を開いてもらえる。質が高くてほどよい規模の大学という、小樽商大の良さを実感します。最近の自分の変化は、まず体重ですね。30歳を前にして、突然太りやすくなりました。みなさんもいまから、食生活やスポーツ習慣を意識しておいてください。そして、これだけ転勤や出張ばかりの自分でしたが、来月入籍することになりました。仕事に熱中して忙しくても、その気になればちゃんと結婚もできる。これも皆さんに伝えたいことです(笑)。

 

<小林裕介さんへの質問>担当教員より

 

Q 学生がその会社の企業文化までを知るにはどうすれば良いでしょう?

 

A 私は採用担当のひとりでもありますが、人事担当の話だけで企業を判断してはなりません。彼らは良いことしか言いませんから(笑)。インターンシップで実際の職場を見たり、可能なら社長をはじめ企業の意思決定をしている人と話してみることをお勧めします。インターンシップでは、通常の仕事以外のこと、例えば社内の行事や勤務が終わったあとの交遊のことなども聞きましょう。

 

Q 採用の現場でいまの学生に感じることは? 小林さんは入社してからも持ち前の積極性で、上司や社長に業務の提案などをしてきたのですね?

 

A 北海道・東北の学生さんよりも、関西の学生の方がアピールがうまいですね。商大生も、芯があるので掘り下げていけばみんな良いものをたくさん持っています。ただ表現力がやや足りないと感じます。ここぞという時には、もっとギラギラしてください。新人時代から私は、例えば社長が自分の部署に来たとき、必ず何か提案することを心がけてきました。チャンスをつかまえたら30秒くらいで何かをパッとアピールできるように、いつも用意をしていました。

 

<小林裕介さんへの質問>学生より

Q 物流サービスという、形のないものを売る難しさはどんなところにありますか?
 
A 私が売るのはモノではなく物流の仕組みです。物流企業はみなトラックや倉庫を持っています。同じ土俵では単なる価格競争になってしまう。例えば関東の工場から北海道への物流を改善したいと考える企業に、直送便を改善するのではなく、北海道での在庫を効率的に増やしましょう、と提案することもできます。「物流の仕組みの効率化」が当社の商品で、形がないからこそ新しく自由な発想で勝負ができるのです。
 
Q MBAを取得したいのですが、学生時代に取るか就職してから取るか、どちらが良いでしょう?
 
A 私の場合は、就職して社会人のペースをつかんでから兵庫県立大学で取りました。大学で学ぶ理論と仕事での実践。この両輪のバランスが良かったと思います。またずっと年上で経営の一線にいる方々と机を並べたので、そこからもいろんな出会いや学びを得ることができました。学生にはできないようなレベルのコミュニケーションが持てたと思います。

 

「日米の企業文化を経験して」〜菊谷洋介氏(平成23年商学科卒/三菱重工業株式会社)

 

グローバルプレイヤーの一員として

 

自分もこの教室でエバーグリーン講座を受けていました。入学したころの思い出としては、まず夏のルーキーズキャンプです。ここで大津先生や江頭先生などといろいろ話ができて、大学生活が俄然楽しくなりました。
ケーススタディ講座を受けて、在学中に中小企業診断士の資格を取りました。サークルはCDP(Career Design Project)の7期に参加しました。アルバイトは、塾の講師。面白そうなイベントがあると、とにかく積極的に参加していました。
2011年に三菱重工業(株)に入社しました。最近では国産小型旅客機MRJがよくニュースになっています。豪華客船から航空機やミサイルまで、幅広いものを作っている企業です。最初に配属されたのは原子力発電所のアフターサービスの営業でした。なんといっても東日本大震災の直後でしたからハードな毎日でしたが、社会のために働くんだという気持ちを強く持って毎日出社していました。
 
当初から海外に行きたいと言い続けていて、2014年、三菱日立パワーシステムズというグループ会社のアメリカ現地法人に駐在することができました。アメリカやメキシコなど米州地域へ火力発電所を売り込む営業職です。2016年に帰ってきて、いまは中東・アフリカ地域におなじく火力発電所を営業する仕事です。契約ひとつが数千億円にのぼる仕事なので、日用品をパッとセールスするのとは違う大きな規模の仕事です。近年は世界的に風力や太陽光発電など、再生可能エネルギーの伸びが目立っています。しかし現実のところは、世界の発電はまだまだ火力が7割近くを占めているのです。熱源には石炭、天然ガス、石油などがありますが、いま火力発電に求められているのは、環境への負荷をできるだけ抑えていかに効率良く発電をするか。そこが自分たちのミッションだと考えています。火力発電所の建設は一基数千億円のプロジェクトですから、世界でも火力発電所一式を作れる企業はそうはありません。ドイツのシーメンス、アメリカのGE、そして当社の3社がビッグスリー。三菱日立パワーシステムズは、三菱重工業と日立製作所との火力発電事業を統合して2014年に誕生した会社です。目の前の課題としていつも意識しているのは、前を走る巨大なグローバルプレイヤー2社と競いながら、世界のエネルギー問題と環境問題を同時に解決していくこと。それに尽きます。
仕事の中味としては、私はいま、営業と契約管理の仕事をしています。営業では、入札のためにプロポーザルをつくります。契約管理では、大型ファイル5冊〜10冊くらいの書類をもとに、工程スケジュールや予算の執行が契約書通りに進んでいるかを確認していきます。工程は大きくわけて、「設計」、資材などの「調達」、「建設」の3つですが、このすべてで細かな確認が欠かせません。クライアントは電力会社や各国政府、大手商社さんになります。

 

アメリカで学んだこと

 

アメリカ駐在のときのことを話しましょう。
「Mitsubishi Hitachi Power Systems Americas, Inc.」という会社で、マネージャーとしてCommercial Operations の仕事をしました。会社があるのは、フロリダ州のオークランド。温暖で暮らしやすく、東海岸でリタイアした人が豊かな老後を求めて移住するような土地。ディズニーランドやユニバーサルスタジオ、そしてケネディ宇宙センターもあって、遊びに行くにはほんとうに良いところです。上司はアメリカ人で、仕事はもちろんすべて英語で行います。留学経験のなかった私ですが、何とかなりました。日米の企業文化はかなりちがいます。日本ではなにもわからない新人には最初にまわりがしっかり教えて導いてくれますが、アメリカはちがいます。使えなければすぐクビです。でもそのぶん正しいことを言えばちゃんとフェアに評価されるし、年功序列もありません。大事な会議でも、社長も私も同じテーブルについて何でもフランクに話し合います。
「Up or Out(昇進か辞めるか)」の世界なのです。ほんとうにドライで厳しい世界ですけれども、これはこれで筋が通っていますね。でも日本のやさしさや暖かさにも価値がある。私は両国のいいとこ取りをすることを考えていました。早く現地に溶け込もうと思い、辛いことがあっても逃げないぞ、と肝に銘じていました。職場でのランチ会やパーティもあります。パーティといってもプールのある邸宅でみんなおしゃれして、なんていうのではなく、みんなが気軽にちょっと集まるもの。タコス食べよう、スシ食べよう、という感じです。その延長で、クライアントとの心理的な距離も日本よりずいぶん近いですね。
 
私は駐在が決まってすぐに入籍しました。彼女は日本で仕事をしていたので、寂しいことに単身赴任になりました。でもその分、休みの日にはひとりでいろんなところに旅行しました。アメリカに行ったときから取り組んでいた大きなプロジェクトが、帰国直前に決まりました。ほんとうにうれしかったです。これは成功例。失敗例としては、契約金額の桁をひとつ間違えるという事件がありました。200Pくらいあるプロポーザルファイルの最後の1Pの大失敗。幸い上司のチェックで見つかったのですが、数千億円のゼロがひとつちがうのですから、もしそのままクライアントに提出されていたらと思うと…。その上司からは3時間くらいみっちりご指導をいただきました(笑)。アメリカで暮らしたこともなく英語に不安もあった自分ですが、会社と仕事が私を成長させてくれました。
皆さんに言いたいのは、何にでも興味を持ったらまず行動してみよう、ということ。考えすぎると誰でも臆病になってしまうものです。まず飛び出してみる。そんな気持ちが大切だと思います。

 

<菊谷洋介さんへの質問>担当教員より

Q 海外勤務で、英語力よりも必要なものがあるとしたら何でしょうか?
 
A コミュニケーションの現場で、自分の殻を破れるかどうかが重要だと思います。英語力は時間とお金があればたいていの人はなんとかなります。でも異文化の壁にぶつかったとき、日本の自分に閉じこもっていては何もはじまりません。自分らしく働くためには、現地の人や文化と十分に交わることが大切です。日本では、職場の仲間と飲むときは「終電までトコトン行くゾ」が基本でしたが、アメリカの現地法人ではそんなことはできません。家庭生活を大事にするアメリカでそれをやると、すぐ離婚されてしまいますから(笑)。でも会社帰りのちょっとした飲み会やホームパーテは盛んで、私はそういう場にできるだけ参加して、いろんなことを学びました。
 
Q アメリカへは結婚早々の単身赴任だったのですね?
 
A はい、妻には日本での仕事がありましたから。でもどんなときも毎日朝と晩、FaceTimeで話をしていました。1分で終わるときも1時間話すときもありました。時差がちょうど12時間だったので、都合が良かった。いまはほんとうに便利な時代だと思います。

 

<菊谷洋介さんへの質問>学生より

Q アメリカで火力発電所を売り込むのと、中東やアフリカでセールスするのでは何がどのようにちがいますか?
 
A いわゆる先進国と発展途上国のちがいですね。途上国での財源は、日本からのODA(政府開発援助)などが基本です。政治文化、商習慣がちがいますから、例えば大統領が失職するとプロジェクトが全部頓挫してしまったりする。そうしたカントリーリスクをどうヘッジしていくかが重要になります。
 
Q 留学経験はなかったとのことですが、学生時代のTOEICのスコアはどのくらいでしたか?
 
A 学生時代は500点台でした。アメリカに赴任する前の勉強と現地での経験で、いまは900点台でしょうか。

 

「やりたいことは、経験の中からしか見つからない」〜寺下友香梨氏(平成24年経済学科卒/株式会社リクルートコミュニケーションズ)

 

モノではなくコミュニケーションをデザインすること

 

2012年に卒業して、(株)ネクストというITベンチャーに就職しました。まず広告の営業をしていました。2014年に転職をして、同じ広告の世界でも今度は作る方、クリエイティブの現場。リクルートグループのモノづくりの会社で仕事をしています。広告といっても幅広い世界です。皆さんがまず思い浮かべるのは、商品やサービスの広告だと思います。スマホとか、旅行とかですね。でも私の仕事の分野は少しちがいます。ひとことで言うと「HR領域の広告」。HRとはHuman Resources(人材)で、この領域の広告によっていろんなコミュニケーションを作り出していくのが、ディレクターという私の仕事です。つまり、つくる(デザインする)のはウェブサイトやポスターなどに留まらず、コミュニケーションそのものです。
一般的な広告では、クライアントは自社商品をできるだけ多くの多様な人に届けたいと希望します。でも私の仕事は、クライアントのニーズを、あらゆるコミュニケーションの手法を駆使しながら、最適な人にできるだけしぼって結びます。例えばTSUBAKIという女性用の人気のシャンプーがあります。これをなぜか大津先生が買ったとしても、結果オーライですね(笑)。ひとつ売れたのですから。でも人材募集の公告ではそうはいきません。クライアントに、こういう条件の人がほしいと明確な希望があったとしたら、誰でも良いというわけにはいきません。
 
実際の私の仕事を映像で少し見ていただきます。2014年に、「三陸UIターンプロジェクト」という仕事をしました。三陸のあるまちの市長さんから、流出がつづく三陸の人材環境をなんとかしてほしい、三陸を「人と産業が育つ街」にしたい、と依頼を受けたのです。私たちは、ならば、と、そのひとつの町だけではなく三陸全体を大きく巻き込んで、いま三陸は働く価値の高い場所なんだ、と訴えるキャンペーンを企画しました。キャッチコピーは、「StartingOver 三陸/三陸で働く、という選択肢」。一般的には、三陸はまだ大震災からの復興途上とか、産業といえば一次産業中心だろう、といったイメージを持たれているかもしれません。しかし実際はちがいます。新しい産業が育ち、海外からの企業進出もあります。震災で無くしたものを取り戻す段階ではなく、新しいモノを生み出すフェイズにあるのです。そのことをいかに伝えていくかが私たちに問われた課題でした。そうした狙いを、ウェブサイトを中心に発信しました。ターゲットは、将来起業して地域で産業を立ち上げられるような人材。サイトでの発信に加えてリアルイベントも展開して、三陸に実際に住んで働くことを実感してもらいました。
結果としては、2015年、釜石市と大槌町の企業に10名の若者が入社しました。10名。それならたいした成果ではないと思われるかもしれません。でもそれまでは新卒採用などとても考えられなかった企業に、とても優秀で強い意欲をもつ若者が根を下ろしたのです。地域にとってこの意味は大きいと思います。私は、格好いいウェブサイトやキャッチフレーズができるよりも、こうして具体的な成果を生むお手伝いをしたことがとてもうれしいのです。
 
ほかの仕事、たとえば外食産業の人材募集の仕事では、毎月クライアントの役員会に出席させていただき、会社をどうする、社員やアルバイトさんにどんな職場環境でどんな生活をしてもらうか、といった深く掘り下げた議論に参加しています。そのとき作った、社員ひとりひとりが胸ポケットに入れることになったビジョンカードをお見せします。またこれは、経済産業省の仕事で、ヘルスケアビジネスに人材を呼ぶためのパンフレットです。ヘルスケア産業には、医療や介護をはじめ高齢者の住まいや健康増進など、幅広いサービスやモノづくりの分野があります。これからの日本にとって重要な産業領域ですが、仕事としてのやりがいや可能性を若い人たちに伝えることが私たちの仕事でした。広告づくりには、専門の技術をもったたくさんの人が関わります。
一連の仕事で私の職種は、たくさんのスタッフに力を発揮して貰いながら全体の方向づけや価値づけを行うディレクター。私の仕事は、クライアントが直面している課題の核を見つけて、最適な解決策をつくり、具体的なモノの形にしていくことです。

 

私のこれまでとこれから

 

商大に入って1年目の私は、大学の勉強以外に特に何もしていませんでした。2年生のときに札幌の観光大使(ミスさっぽろ)になり、そこから導かれるように、NHKの音楽番組のMCをすることになりました。3年生のときには、ITサミットや商大100チャンネル、小樽ブリッジプロジェクトなど、大学を飛び出していろんなことにチャレンジして、たくさんの仲間や知り合いができました。
卒業してITベンチャーに就職して最初は営業職で、ネット広告を売る仕事でした。その一方でGROUNDSCAPE paperという、日本の風景や空間デザインの情報発信をするフリーペーパーを作ったり、海外にも留学しました。それから、具体的なモノづくりである広告の制作がしたくて転職して、いまは制作ディレクターを務めています。
皆さんに伝えたいことはまず、「やりたいことは経験の中からしか見つからない」ということです。針路をどうしよう。その問題の前で行動もせずひとりで悩んだり迷っているだけでは、何もはじまりません。学生時代にいろんな経験をして、いろんな人と知り合いましょう。特に社会人から学べることは少なくありません。その中からきっと自分のやりたいことが見えてくるはずです。小さな選択を重ねていくことで、大きな視野が広がってくると思います。私の場合はそうでした。そして、苦手を克服するのではなく、得意なことを伸ばしましょう。私にはMBAとか中小企業診断士は絶対無理です(笑)。でも、コミュニケーションの企画を考えたり、人前で話をしたり、議論の場を回すことは好きで得意です。この分野を、さらにもっと伸ばしていきたいと思います。

 

<寺下友香梨さんへの質問>担当教員より

 

Q 寺下さんは同じ業界で転職をされていますが、どういういきさつでしたか?

 

A 転職はキャリアアップのために。そう考えていました。1社目では、ITサービスを立ち上げた企業で、広告の営業職でした。やりがいがあって十分に楽しかったのですが、仕事の中でもっと楽しいことを見つけてしまったのです。頼まれなくてもクライアントのキャッチフレーズとかバナーなどをつくっているうちに、こっちの方がおもしろいゾと思ったのです。広告というモノづくりをするために広告クリエーターになりたい! と思いました。制作のことを勉強して、転職しました。
ではなぜ最初からクリエイティブ目指さなかったのか——。就活の時点では、そこまで見えなかったんですね。ビジネスの社会に出て経験を積んだからこそ、それが見えた。皆さんの中には、「やりたいことがわからない」と思っている人もいるでしょう。でもじっとしていても何もはじまりません。ちょっとでも興味引かれるものがあれば、とにかく動いてみる。そうするとちがう景色が見えてきます。

 

Q 10年後の自分をどうイメージしていますか?

 

A いまは毎日仕事がハードで、そのことを楽しんでいますが、さすがにこれを10年つづけることは難しいと思います。独立するか起業するか、自分のペースでできる仕事環境を作っていると思います。文章の表現力をもっと高めたいし。実はこのあいだの誕生日にプロポーズを受けました。10年後は子どもがふたりくらいいて仕事をしているのかな、とも思います。

 

 

<寺下友香梨さんへの質問>学生より

 

Q 学生時代に取り組んだことで、特に役立ったことはありますか?

 

A 私の父は堅い仕事で、母は専業主婦でした。ですから自分の家庭とはちがう世界を知りたいと思っていました。とくに社会人と関わる活動を意識していました。小樽にスゴイ人を呼んじゃおうという気持ちではじめた「小樽ブリッジプロジェクト」などです。自分はこの人みたいな大人になりたい、というロールモデルを探していたのだと思います。これは面白そう、そう感じたら何でもやってみようと思っていました。札幌の観光大使や札幌のNHKで番組MCをしたのも、そうした延長上のことでした。

 

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