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エバーグリーンからのお知らせ

2020.01.15

平成31年/令和元年度第12回講義:「民間シンクタンクから地方公務員への転職とSocial Entrepreneurship」

講義概要(1月15日)

 

○講師:田島誠也 氏(平成27年)大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻修了/北海道釧路総合振興局産業振興部商工労働観光課)

 

○題目:「民間シンクタンクから地方公務員への転職とSocial Entrepreneurship

 

○内容:

東京で生まれ育ち東京のシンクタンクに勤めた私は、思いがけない「縁」や「運」に導かれて道庁職員になり、いま釧路に暮らしている。北海道に来て取得した中小企業診断士の資格もまた、趣味のフットサルの世界などで自分ができる新たなことに気づかせてくれた。民間のシンクタンクから地方公務員に転職して、より強くなった地域社会との関わりへの思いを振り返りながら、皆さんの進路選択へヒントを提供したい。

 

 

 

民間から公務員への転職が意識させたSocial Entrepreneurship

 

 

田島 誠也 氏(平成27年)大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻 修了/北海道釧路総合振興局産業振興部商工労働観光課)

 

 

 

 

 

伊藤整のご子息伊藤滋先生との出会い

 

 

 

私と小樽商科大学との関わりは、2013年から2年間、OBS(大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻)で学んだことにあります。42歳からの学び足し、学び直しでした。私は東京で生まれ育って、慶応大学で経済を学びました。卒業して三菱総合研究所(三菱総研)というシンクタンクに10年ほど勤めて、それから北海道庁に転職しました。北海道に来て16年たち、これまで札幌と留萌で暮らし、昨年(2019年)6月からは釧路総合振興局に勤務しています。今日は私のそんなキャリアのことを話して、皆さんの参考になれば良いと思います。まず、高校2年生のときに経済学に俄然興味を持ったことと、その後のいきさつをお話しします。友だちの影響で高1からZ会の通信講座を受けていたのですが、中でも小論文がおもしろいと思って、受験用の講座を高2から受けました。課題をめぐって自分なりに考えて文章で表現することと、それが添削を受けてフィードバックされてくるサイクルが気持ち良かったのです。高2のとき、その翌年から京都大学の経済学部で論文だけの入試が行われることになり、その対策として各予備校で論文の模試がはじまりました。この論文試験は、一問25003000字の論文を、1日8時間で3〜4問のテーマで書くというすごいものでした。(現在は特色入試という名称で、3時間の試験になっています)高2の秋、この論文試験を想定した代々木ゼミナールの模試で全国8位になりました。高3と浪人生に混じって8位ですから自信がつきました。そして、その問題文に使われていたのが、日経文庫になっている『経済学入門(上・下)』(篠原三代平)という本でした。答案の論文を書きながら、私はこの本の内容にぐんぐん惹かれました。面白い!そして試験の帰りに新宿の紀伊国屋書店でこの本を買って、喫茶店に入ってすぐ読み始めました。むさぼるように読んだ、という表現が合っていると思います。経済学って面白い! 私は心からそう思いました。高3になっても京大論文模試では全国で一桁台の順位を連発しました。そして京大経済学部を受験しましたが、残念ながら合格はかないませんでした。敗因ははっきりしています。経済学の本ばかり読んでいたからです(笑)。次の策として、英語・数学・小論文で受けられた慶応大学の経済学部に入学しました。しかし、実は大学での経済学の講義には、それほど熱中できませんでした。マクロ経済学やミクロ経済学の基本的な文献は高校時代にあらかた読んでしまっていたからです。でもゼミを選ぶ3年生のときに状況が変わりました。2年生のときに都市工学者の伊藤滋先生を知って、建築土木や都市計画の世界が俄然面白くなっていました。実は、伊藤先生は皆さんの大先輩である伊藤整のご子息です。当時伊藤先生は東京大学の都市工学科の教授で、先生の息子さんは、高校(都立富士高校)での同級生でした。都市や地域経済の分野に強い興味を持った私は、公共経済学のゼミに入った上で、都市経済学のサブゼミを自分で立ち上げて、メンバー4人で専門書を輪読したりしました。ほんとうは建築や都市計画の分野も勉強したかったのですが、慶応には建築学科や都市工学科がないので仕方がありません。そのため、経済学部の専門科目で都市や地域経営、交通、人口といった分野の授業を、商学部の科目も含めてたくさん履修しました。さて就活です。時は1992年。インターネットもEメールもまだ普及していません。電話帳のようなぶ厚い就職情報誌からハガキを切り取って、興味を持った会社に資料を請求します。私は約500社に請求して、70社くらいにOB訪問をしました。OB訪問をするうちに、地域経済に関する調査研究なども行うシンクタンクに興味を惹かれました。いま外資系のコンサルティングファームはとても人気ですが、当時は違いました。外資系シンクタンクは面接の時期が早かったので、予行演習も兼ねてたくさんの志望者を集めましたが、メガバンクから内定が出ると、学生はたいてい銀行を選んだものです。現在と比べると、業界の人気は低かったと言えます。幸い、三菱総研から内定をもらいました。地方公務員も考えましたが、当時の私にとっては東京都庁などで自分が具体的にどんな仕事をするのか、イメージが湧きにくいところもありました。最後まで悩んでいたのはJR東日本ですが、三菱総研の内定者懇談会で幹部社員から、「総研からJRに転職はできるけど逆はほぼないよ」と言われて、そうなのか、と思い決断しました。でもこのとき、キャリアパスのひとつとしてシンクタンクがあるんだ、という気づきも得たのです。シンクタンクに興味のある人は、当時の私が学んだ『シンクタンクの仕事術』(名和小太郎・別冊宝島149)という本が、いまでもとても役に立ちます。時代の変化の底にある、シンクタンク業界の本質を突いています。ネットで中古本が買えると思います。

 

 

 

三菱総研でのハードな日々

 

 

 

当時(1993年)の三菱総研は、「優れた情報で輝く未来(Better Information- Brigther Future)」という経営理念を掲げていました(いまは違います)。価値ある情報でクライアントの未来を輝かせるというシンクタンクの本質を突いたフレーズで、私は好きでした。同期は、研究職で45人、事務職31人、スタッフ職2人。研究職は修士39人、博士1人、学部卒は私を入れて5人でした。三菱総研はもともと、複雑な技術計算が強みのひとつで(例えば防衛省もクライアントのひとつ)、そのため研究職の7割は理工学系でした。オフィスは東京の目黒にありましたが、そのビルの自分のいたフロアには、いまはAmazon Japanが入っています。シンクタンクの仕事の流れを、調査研究を受託する場合で説明しましょう。まず営業。これはこちらから企画を提案する場合と、先方から依頼される場合の2パターンがあります。企画書と見積書を作成して、受注が内定したら正式な契約書を交わします。実施計画書を作って、クライアント合意の上で調査研究が始まります。このとき外部の有識者を交えた委員会を設けて議論してもらうこともあります。月に一回程度進捗状況を報告して、中間報告会と最終報告会を実施します。最後に成果物として報告書を納めて、請求書を起こします。受託金額を受領してここで仕事が完結。クライアントからの入金確認までを行う必要があり、報告書を提出すれば全て終わり、というわけではありません(具体例はのちほど説明します)。調査研究といっても営利企業ですから、自分の得意分野や好きなテーマだけに取り組んでいれば給料がもらえる、というわけではもちろんありません。当時の三菱総研では、研究員は1人年間5000万円、主任研究員だと1億円分の仕事をしろ、と言われていました。業界団体のNIRA(総合研究開発機構)によると、受託調査研究の平均単価は、900万円くらいでした。研究員は若手アシスタントといっしょに1年間に1億円分(5000万円×2人分)のプロジェクトを受注して回さなければならず、平均単価の900万円で割れば年間11本くらいはこなさなければなりません。つまりざっくり言うと、クライアントとの打ち合わせや現場の調査などを進めながら、皆さんが書く卒論や修論を同時に10本くらい進めていくようなイメージです。締め切りは絶対に守らなければならず、ときには途中で提出期限が前倒しになってしまうこともあります。私はOBS(大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻)で厳しく鍛えられましたが、シンクタンク時代に比べればまだ余裕が持てました。時にクライアントは、会議の予定が早まったので7割のできで良いからすぐ見せてくれ、などとムチャぶりをしてくることもあります。ですから仕事は、学生時代の一夜づけの勉強で辻褄を合わせる、といったやり方では歯が立ちません。計画的にコツコツ着実に進めなければなりませんから、プロジェクトマネジメントや交渉のスキルは否応なく身につきます。さらに、何度もダメ出しをくらうことがありますから、タフなレジリエンス(再起力)も求められます。

 

 

仕事はどのように発生するか。

 

 

 

こちらから営業をしなくてもある日電話やメールが来て仕事を依頼される、と想像するかもしれませんが、実はシンクタンク側が仕掛けて戦略的に受注しているケースが多いのです。また、国や自治体との仕事は、予算要求の段階から関わっていることが少なくなく、財政当局に向けて予算要求書をシンクタンク側が書く場合も多々あります。私が担当した具体例を挙げます。いわゆる官庁案件です。北海道のある政令指定都市の市営バスを民間に移管するための基礎調査を受注しました。背景には、現状では人件費率が高すぎて(運転手の平均年収が1千万円を超えるといわれていました)、このままではまちの交通インフラがもたなくなる、という交通局幹部たちの危機意識がありました。私のチームは80近い全路線に、全時間帯をカバーしながら実際に乗車して乗降人員をカウントして、路線別の需要予測をした上で、将来収支を予測しました。そこから、現状の市営のままでは存続は不可能だけれど、人件費水準の低い民間に移管すれば持続は十分に可能である、という結論を出しました。10年近く担当したプロジェクトでしたが、この仕事が私の本格的な北海道との関わりになりました。もうひとつ。こんどは民間案件です。1997年ごろ、ある大手商社から、「公的介護保険制度(2000年施行)に向けて新規事業を立ち上げたいが、どのような分野があり得るか、という調査研究の依頼がありました。同時期に損保会社などは、ヘルパーの会社や有料老人ホームを立ち上げたりしていました。私たちは、商社がもっている金融や卸の機能を活用して、福祉用具や介護機器のレンタル卸会社を構想して提案しました。ドイツに介護保険の先行事例があったのでドイツに出張してリサーチも行いました。車いすや介護のための電動ベッドなど、福祉用具のレンタルをする会社は全国に8000くらいあります。レンタル商品の利用者はかなり流動的なので、こうした中小事業者にとっては、商品の在庫管理がとても難しいという問題がありました。そこで、そうした商品の卸会社を作れば商機がある。私たちはそう考えて、フィージビリティスタディ(事業化調査)を行いました。こうして、福祉用具関連業界からも出資者を募って、まったく新しい業態の会社の設立(1998年)をサポートしました。それが、いま東証2部上場で、連結売上173億円ほどの企業になった日本ケアサプライ(株)という会社です。

 

 

 

中途採用で北海道庁へ

 

 

 

三菱総研で10年くらい経つと、一生この仕事を続けられるだろうか、と思うようになりました。受注と消化のノルマを毎年達成していくのが心身ともにしんどくなってきたのです。私たちに調査研究を依頼するクライアントは、社会の大きな変化を反映して移り変わります。バブル経済のころはリゾート開発、阪神淡路や東日本大震災のあとは防災関係、2000年ころからは、いまあげた介護保険の分野、という具合。インターネットが社会のすみずみに普及してきましたから、ネットでパッと拾えるような情報やデータを報告書として束ねることはできません。クライアント側のスキルも上がって、付加価値をつけることのハードルが上がっていきました。研究職には高い専門性が求められますが、時代に合わせて当然スキルアップが必要ですし、ひとつの分野だけでは足りなくなってきました。T型の人材(幅広い知見の上にひとつの専門分野に深いノウハウをもつ)よりも、π型の人材(幅広い知見の上にふたつ以上の専門分野に深いノウハウをもつ)になって、自分をリスクヘッジしろ、などと言われました。また、会社は2009年に東証一部上場したのですが、その準備としてISO9001(品質管理)と14001(環境マネージメント)、プライバシーマーク(個人情報保護)の取得などに取り組み、どんどん「普通の会社」になっていきました。特にISO9001の導入で、調査研究のプロセスが細かく管理されるようになり、現場の制約が厳しくなりました。以前なら社内表彰を受ける大手柄となった、研究員が一人で勝手に動いて1億円の案件を受注するようなケースが、これからは懲戒処分になってしまう。こうしたこともあって、精神的にも体力的にも辛くなってきました。2001年の9月。私は夏休みをとって、ニューヨークにいました。911日、マンハッタンのトライベッカ地区にいた私は、ワールド・トレード・センターに2機の旅客機が突っ込んだあの現場の近くにいました(アメリカ同時多発テロ事件)。大学の後輩があのビルで巻き込まれ、幸い彼は生きのびましたが、亡くなった知人もいました。その後しばらくは日本国内でも飛行機に乗るのが怖くて怖くて仕方ありませんでした。忘れようもない衝撃を受けて、私は思いました。「人生、いつどうなるかなんて誰にもわからない。後悔しない生き方をしよう」。転職するぞ。そう思いました。ではどこに?同業他社は、考えにくい(大半は三菱総研よりも知名度が劣る会社です)。一般企業の調査部はどうか? 例えばトヨタとか電通とか…。でもそこに入ったとしても、ずっと調査部にいられるかどうかは保証されません。では、コンサルタントのノウハウをもってクライアント側に入り込むのはどうだろう。経験上、官公庁の仕事のあらましはだいたい分かっています。当時はまだ国家公務員は民間経験者採用が少なくて、公務員の中途採用は、都道府県庁が中心でした。そして北海道庁も毎年採用試験を実施していました。これは、拓銀の離職者(1997年破綻)の受け皿のひとつとして採用が増えたそうですが私が受けた年に道庁では、「シンクタンクやコンサルタント会社、企業等の経営企画部門において、組織・経営改革や事業評価関連業務の経験を有する者1名」を募集していました。公務員試験対策の勉強をしてこれに応募して、応募者5名の中から選ばれたわけです。人事調書に「中小企業診断士の受験勉強中」と書いたからだと思いますが、商工振興課、現在の中小企業課に配属されました。2004年の春です。(実は当初は産業政策推進室というシンクタンク的な組織に配属される人員として採用されたと思われるのですが、選挙で知事が換わり、この部署は廃止になりました)2007年から留萌振興局の地域振興部地域政策課に移り、2011年の6月から8年間は札幌の本庁で、経済部の中の3つの部署で仕事をしました。そして昨年(2019年)の6月から釧路総合振興局産業振興部商工労働観光課にいます。商工労働観光課はとても幅広い仕事をしますが、現在は観光を軸にした分野の仕事が多くなっています。シンクタンクでの経験がいまどのように活きているか。データなどをベースにした政策立案の検討は、シンクタンク時代も自治体との仕事で経験がありますし、情報の収集や分析、統計資料の分析といったスキルは蓄積があります。予算要求も経験があります。はじめての経験が議会対応で、これは相手のある他律的な業務ですから、慣れが必要だな、と思っています。

 

 

 

専門性を社会的起業家精神に結ぶ

 

 

 

2009年の春、留萌にいたときに私は中小企業診断士の資格を取りました。経営コンサルタントの国家資格であるこの資格を、私はシンクタンク時代から取りたいと思っていました。会社の看板ではなく個人の専門性で仕事がしたいと思ったからです。道庁に転職して、最初の商工振興課で道内の診断士の方々と交流ができました。政策を担当する行政職としても、専門性を高めて診断士の皆さんと同じ目線で議論をしたいと思いました。しかし残念ながら、公務員として診断士の資格を活かすには、さまざまな制約があります(地方公務員法)。資格を実際に取ってからは、むしろ仕事の外、休日や平日の夜に活かせることを実感しています。個人的に出資したワイナリーなどの経営相談に無償で取り組んだりしています。いわば自腹ハンズオン(出資者が投資先の経営に関与する)です。また、私は子どものころからサッカーをしていたのですが、30歳ころからはフットサルを楽しむようになりました。北海道に来ても社会人のチームでプレイしていましたが、任意団体だった札幌フットサル連盟がNPO法人化することになり、診断士の職能やこれまでの自分のキャリアで貢献することができました。組織ガバナンス、財務、人的資源管理、マーケティングといった分野です。私にはNPO法人札幌フットサル連盟副理事長という肩書きもあります。そのほか、(公益財団法人)日本サッカー協会認定のフットサル4級審判員、(同)北海道サッカー協会認定フットサル普及指導員とフットサル公式競技記録員、(同)日本サッカー協会JFAマッチコミッショナー(ゲームの公式立会人)などの資格をもって、フットサルの世界でも活動しています。平日の仕事を離れた活動で、私はSocial Entrepreneurship(社会的起業家精神)を発揮することを意識しています。これは「プロボノ」活動とも呼べるでしょう。プロボノとは、「各分野の専門家が、職業上持っている知識やスキルを無償提供して社会貢献するボランティア活動。またそれに参加する専門家自身」、と定義されています。自分のスキルを楽しく発揮できる場所を持つと人生がぐんと豊かになりますし、地域社会の成り立ちに具体的に関わる喜びややりがいが味わえます。趣味を楽しむにしても、「単にそれが好きな人」と、「資格が証す専門性をもって対応できる人」では、ポジショニングがまったく違ってきます。受験勉強をしてきた皆さんがよく知っているように、社会で生きていくためにはいろいろな勉強が必要です。それは大学入試やTOEIC、ダイビングのライセンスといった明確に目標があるものから、経済学や古典の教養、音楽など、いつまでも天井に当たらない大きな勉強まで、さまざまです。でも、私のフットサルに関わる資格のように、仕事の分野以外の趣味の世界でも、具体的な資格や検定は、とても大事です。これがあれば、社会での立ち位置が変わってくるのです。昨年(2019年)9月。札幌で「第6回中小企業診断士シンポジウム」という全国イベントが開かれました。中小企業診断士有志による交流行事です。私は実行委員会の副委員長・事務局長として全体をプロデュースしました。OBSで学んだ専門家の切磋琢磨の手法である、戦略提案コンテストなどを行って盛り上がりました。私の社会的活動の成果だと自認しています。またフットサルでは、札幌市に日本フットサルリーグ(Fリーグ)に加盟するエスポラーダ北海道というチームがありますが、Fリーグの札幌開催時には公式競技記録員を務めています。8年前にはあの三浦知良選手がエスポラーダ北海道の選手としてコートに立ちましたが、そのときも記録員を務めました。2019年9月に釧路で開かれた全国選抜フットサル大会では、マッチコミッショナーとして全国デビューすることができました。マッチコミッショナーの定年は70歳なので、できるかぎり続けていこうと思っています。中小企業診断士やフットサル連盟の活動は札幌が中心なので釧路と札幌との距離300kmがハンディキャップになるという課題はありますが、リモートの技術を使った関わり方もできますし、釧路での職責をしっかり果たしながら(例えば出先機関の管理職は、気象警報が出れば休日でも30分以内に登庁しなければなりません)こうした活動にも力を入れていきたいと思います。

 

 

 

100年の人生を俯瞰して進路を考える

 

 

 

大学で私は経済学を学び、経済合理性の世界観を身につけながら、大学の外で出会った都市計画の伊藤滋先生の影響で都市や地域経済への関心を高めました。卒業して民間シンクタンクに勤め、巡りあわせで地方公務員になりました。大学を卒業するとき、自分が北海道庁の職員になるなどとは想像だにしませんでした。そのときの自分にとってはあり得ない未来です。しかし思いがけず北海道との縁が生まれ、仕事をしながら中小企業診断士という資格との縁もつかみ、この資格が私の世界をさらに広げてくれました。フットサルも、私の暮らしを北海道に深く根づかせてくれています。私は皆さんに伝えたいと思います。なりたい自分になるためにたゆまぬ努力をすることは大事なことですが、それに加えて、人生には「運」と「縁」がきわめて重要です。これからそのことを強く意識してください。AIが既存の職業をどのくらい奪っていくかを論考した2013年の論文(The Future of Employment)で知られるオックスフォード大学のマイケル・オズボーン教授が、最近のインタビューでおよそ次のようなことを語っています。社会はこれからよりいっそう多様化して複雑になる。今はまだ形のない新しいビジネスや職業が生まれていくだろう。だから必要なスキルも多様化していく。そこで重要になるのは、「適応力」や「自ら学ぶ意欲」。最も必要なのは、「自ら学び続ける能力」。「変化を楽しめる人間」こそが生き残れる—。私は教授の考えにまったく賛同します。厳しい時代を歯を食いしばって生き抜くという姿勢ではなく、そうした変化を楽しみながら生きていけたら、どんなにすばらしいことでしょうか。自分の今後のキャリアとしては、社会的起業家精神を発揮しながら、これからも札幌本庁と道内各地の振興局を行き来する生活が続くと思います。職場を離れた社会的な活動でも、どのまちでも自分の能力が発揮できるように資格やスキルを維持していきたいと思います。そして将来的には、本業をどのタイミングでリタイアして、社会的な活動などに軸足を移していくかを考えていくことになります。ロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授は、「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」という本を書いています。話題となったこの本で教授は、100年の人生をイメージするようになった現代では、我々には従来のような学校、就職、引退といった単線的な3つのステージではなく、学び直しや社会との関わりなどで人生のマルチなステージを戦略的に選んでいくことが求められている、と説いています。私はエクセルで人生カレンダーというものを作っています。縦に100の枡、横に52の枡を用意したシートです。100は年齢、52は1年52週を意味します。人生全体を見渡して、今日の自分がいる週が確認できまる。つまり長い人生を可視化できるのです。最近、友人知人でこのシートを作っている人が増えてきました。私は今年50歳で、このシートのちょうど真ん中。この先どんな人生を歩んでいこうか、シートを見て考えます。もう1回くらい学び直しをしてみようか、とか。皆さんはまだ学校の段階にいるので長い人生を見渡すことは難しいでしょうが、人生を俯瞰しながら明日の進路を考えることを意識してはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

<田島 誠也 さんへの質問>担当教員より

 

 

Q OBS(小樽商科大学大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻)で学ぼうと思った動機を教えていただけますか。

 

 

A 私がOBSに入ったのは42歳のときでした。道庁では2年にひとりOBSに研修派遣する制度があるのですが、その4年前に中小企業診断士の資格を取っていたので、次のステップとしてふさわしいものでしたし、上司がすすめてくれました。資格試験は一発勝負ですが、それとはちがう、長くじっくり取り組む学びをしたいという気持ちがありました。仕事の現場では目の前のことに集中しますから、まとまって勉強の時間をとることができません。強制的にオフィスから離れることをしてみたいと思いました。OBSでは、札幌やその周辺の都市の経営者の人たち、とくに2世経営者の若い人たちといっしょに学ぶことができて、とても刺激を受けました。彼らとはその後も交流を持っています。

 

 

 

 

Q 田島さんは事前課題として学生たちに、これからのビジネスの現場で必要となるスキルはどのようなものか、と問いました。公務員の中途採用で必要とされるのはどんなスキルでしょうか。そしてビジネスの現場で必要となるスキルを、OBSでも学ぶことはできましたか?

 

 

A グループワークが多いOBSで最も鍛えられたのは、ひと言で言えばコミュニケーション力ですね。シンクタンクにいた時代、まわりは、一を言えば十までわかってしまうような優秀な人間ばかりでした。でも一方でそこはとても特殊な環境でした。OBSではほんとにさまざまな業種や立場の方がいますから、仲間内の符丁のやりとりではことが進みません。グループの中でプレゼンテーションを行って、みんなの反応が自分にフィードバックされて、プレゼンテーションの中味がさらに充実していくといった、創造的なフィードバックのループを実感することができました。これからのビジネス現場で必要なスキルは、まさにそういう意味でのコミュニケーション力だと思います。誰とでも打ち解けるとか座を盛り上げる、といった狭い意味のコミュニケーション力ではありません。

 

 

 

 

<田島 誠也 さんへの質問>学生より

 

 

Q シンクタンクではどんな人材が求められていますか?業界の近未来を展望するとどんなことが言えますか?

 

 

A なにか特殊な能力が必要なわけではなく、その意味で就職するのに求められる基本的なスキルと変わりはないと思います。ただ、時代の先端に深く関わるシンクタンク業界は、とても変化の大きな世界です。インターネットが普及する前と後を経験した私の場合は特にそれを感じました。現在と近未来のシンクタンクの仕事は、社会の仕組みを深いところで新しく作りだしていくようなものだと思います。世の中を動かす新しい仕組みを何か具体的に作る仕事です。シンクタンクに評論家は要りません。世の中の課題や変化の予兆を、探究心をもって見すえて、いろいろな人とコミュニケーションを取って協働しながら、ソリューションへと力をフォーカスできる人。学生時代からそういう発想をもちながら、小さなことでも自分の興味を引く世界と関わって行けば良いと思います。

 

 

 

Q 田島さんは民間企業から公務員になられましたが、両者のちがいはどんなところにあるでしょうか? これからのご自身の進路をどのようにお考えでしょうか?

 

 

A 一般に、民間から公務員になる人は珍しくありませんが、その逆はとても少ないでしょう(横浜市役所から三菱総研に転職してきた技術専門職の人はいましたが)北海道庁の場合は、新卒で入った人と中途で入った人との待遇面でのちがいはありません。また、公務員の仕事の方が民間よりも楽だろうと思っている人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。公務員でもある程度のキャリアを積んだ年齢になると、横並びで一律に出世していくということはありませんし、個人差がずいぶんつきます。私は今年50歳になりますが、仕事のほかにフットサルなどの活動も大事にしたいですし、これからは例えば歴史や古典といった教養面も勉強して、人としての深みを得ていきたいと思います。

 

 

 

Q 学生時代を有意義におくるためのアドバイスをお願いします。

 

 

A 私は学部2年生のときに、大学の外で伊藤滋先生の都市計画や地域経済の研究を知って興味を引かれ、息子さんが高校の同級生だったことで、いろいろお話をうかがいました。つまり、人は、大学の内外でいつどんな出会いをするか分かりません。小さな出会いやきっかけが、その後の人生に大きな影響を及ぼすことがあるのです。講義でも強調しましたが、それは「縁」とか「運」とでも呼ぶべきものでしょう。大学の勉強はもちろんですが、バイトも部活も遊びも、とにかく一日一日を、漫然とではなく、ていねいに暮らすことを意識してみてください。

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