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エバーグリーンからのお知らせ

2015.11.18

平成27年度第6回講義:「私の履歴書」

講義概要

 

○講師:朝日博昭 氏(昭和54年 商学部経済学科卒業)

 

○現職等:株式会社ヤマチマネジメント ブランディング・プランナー

 

○題目:「私の履歴書」

 

○内容:小樽商大卒業後、まず大手旅行代理店に就職。そこでの海外旅行添乗員などの経験が、自分を次の針路へと進ませた。イベントプランナー、広告クリエイティブの世界へ。やりたかったことが見つかったと、必死で駆け抜けた30代。40歳を目前に、大手広告代理店に転職。そこからは広告にとどまらず、企業そのものを相手にものを考えるようになった。60歳定年を前に、おそらく最後の転職をした今年。仕事を通して自分が得たこと、いま考えていることを問いかけてみたい。

 

講師紹介

 

1955年札幌市生まれ。1973年北海道札幌西高等学校卒業。1979年小樽商科大学商学部経済学科卒業。同年(株)日本交通公社(現JTB)入社。海外旅行の添乗員として世界をまわり、札幌勤務の時代にイベントやステージ制作の世界へ針路を変更。1988年札幌の(株)協同広告社入社。1995年(株)電通北海道入社。両社で数々の広告賞を受賞する。広告クリエイティブ界での豊富な経験をさらに活かすべく、2015年(株)ヤマチマネジメント入社。

 

ブランディングとは?

 

私は今年の6月、札幌のヤマチユナイテッドグループの(株)ヤマチマネジメントという会社に入社しました。小樽商大を卒業して以来、5つめの会社です。その前の4つめは、(株)電通北海道という広告代理店。クリエイティブ部門で仕事をしていたのですが、60歳の定年を直前にしての転職でした。

 

私には、「定年退職」というレールがどうもなじめませんでした。そこで、これまでの仕事を活かした最後の転職をしようと考えたのです。今日は私の転職歴をお話ししながら、就職や転職について、そしてブランディングという考え方についてお話してみたいと思います。

 

まず現在の私の、ブランディング・プランナーという仕事についてお話しましょう。企業が自社の製品やサービスをマーケットに効果的に訴求しようとすると、ブランドとして認知される必要があります。そのための道筋を作ってクライアントと共に取り組んで行くのが私の仕事です。詳細はあとにゆずりますが、私は自分の仕事を通してブランドというものを強く意識するようになりました。マーケティング戦略の上で、ブランドとは何か? ブランドはどんな要素で形づくられていくのか…。そのあたりに自分なりの答えの方向が見えてきた。そのことが私を59歳での転職に導きました。

 

商大時代に起業

 

商大時代、ホッケの燻製を訪問販売するアルバイトをしました。ひと袋900円で、売れると300円がもらえます。10袋で3000円。時間の拘束もゆるいし金額も当時としては悪くありません。

 

よし売りまくるぞ! と勇んではじめたものの、どうしたものか全然売れません。住宅街じゃだめだ、ススキノで売ってみようとスナックやバー、クラブをまわりました。しかしやっぱり売れない。

 

でも、ススキノの大人はみな良い人たちでした。「こんなんじゃ売れないよ、コマイとかアタリメ(スルメ)のいいやつを持ってきたら買ってあげる」、などと助言してくれます。ならば、と札幌の中央卸売市場でそれらを仕込んでススキノに持っていくと、ちゃんと売れました。

 

これは行ける! そう直感して、バイトはやめ、社会人の仲間と「珍味のまりもや」という屋号で外商の店を作ってしまいました。商売は、純朴な学生丸出しのスタイル。スナックのママたちに、「一生懸命勉強をしたいので、夜はこうして自分で商売しているんです」などと言うと、涙を流してガンバレ、と応援してくれる方さえいました。ほどなく有限会社にして、アルバイトを雇うは社用車は買うは、順調そのもの。私がいちばん調子にのっていた時代です(笑)。

 

4年生になって、さて就職。私は、当時とても人気のあった日本交通公社(現JTB)を志望しました。面接では、会社を作ってススキノで珍味を売りまくっていたことがたいへん受けました。後年、私は企業側としてたくさんの学生と面接をしましたが、彼らがみな学生時代に一生懸命やったこととして口を揃えるのは、バイトと部活のこと。これが何人もつづくとみんな同じに聞こえます。自分を売り込む(ブランド化する)には、相手から自分がどう見えるかを軸に考えなければなりません。交通公社は人気企業でしたから倍率はとても高かったのです。

 

忘れられないのは、経費にまつわること。最終面接で札幌から東京本社まで行ったのですが、飛行機とホテル分の経費をいただきました。ところが面接会場でいっしょになった沖縄の学生と話をすると、彼には飛行機代ではなく船賃しか出ていないというのです。なんだか義憤にかられてしまい、人事部に談判に行きました。天下の交通公社ともあろうものが、これはおかしいではないですか、と。その沖縄の学生は「朝日君、お願いだからやめてくれ!」と必死に押さえにかかったのですが、私は迷いません。次の日、札幌の実家に帰っていた私のところに、驚いたことに人事部長から直接電話がありました。第一声は、「朝日君、ぜひうちに入ってくれたまえ」。ススキノでの珍味売りとこの談判が、強い印象を与えたようでした。もちろん、沖縄の学生も無事入社しました。

 

 

1万2千人の会社から6人の会社へ

 

日本交通公社に入ると、実は海外など行ったことはなかったのですが、海外旅行を専門に扱う銀座の支店に配属されました。はじめての海外旅行にして最初の添乗が、なんと東ドイツ。1979年のことですから、冷戦の終結でベルリンの壁が壊される10年ほど前。ドイツはまだ東西に分かれていたのです。

 

その後、海外でのさまざまな経験を積みました。ハードでしたがやりがいのある日々がつづきます。東京生まれで、ふたり娘の長女だった妻とも結婚しました。でもしだいに自分の中である疑問がふくらんでいきます。「自分はほんとうにお客さまのお世話をすることが好きなのだろうか?」 その一方で、世界のたくさんの国々の街角でふれるアートやデザインのもつ、日本の文化とまったくちがう成り立ちやテイストに強く惹かれていきました。

 

1985年、札幌支店に移動になりました。6年ぶりの札幌です。担当は団体旅行で、主なクライアントはあるテレビ局。取材旅行などのお世話をします。局の皆さんと仲良くなってくると、相談してみました。「デザインや番組制作の仕事をしてみたいのだけれど、どうしたら良いでしょう」。もう30歳になっていましたし、当時は広告代理店も放送局も中途の採用はしていません。局の人は、「どこかに入社できたとしてもすぐ制作の現場には立てないよ」と言います。ならばいちから修業するしかないな。私はそう思いました。

 

そして、札幌にあったラジオ番組やイベントを制作する小さなプロダクションに転職したので1万2万2千人の大会社から、たったの6人の会社へ。そこで有名歌手の北海道ツアーの制作や、広告代理店から注文が来るイベントの企画づくりに取り組みました。でもはじめてみると前職に比べて給料は安く、休みもなく、早く修業生活から抜け出したいと思いました。

 

そこでふたつのことを考えたのです。すなわち、「時間に正確であること」。そして「服装がちゃんとしていること」。これができれば業界では立派な差別化になります。この業界で目立ってやる!と誓いました。そのうち広告代理店からイベント企画の仕事が、私あてにどんどん来るようになりました。ほどなくして、どうせならうちの社員になってくれ、と引き抜かれることになります。当時道内最大手の広告代理店(協同広告社)でした。1987年、32歳。ここから今につながる針路が開かれます。

 

イベントプランナーとして

 

広告代理店では、前の会社からの流れでイベントを企画する仕事につきました。ある日、昭和新山のある壮瞥町の役場の方が訪ねて来ました。これまで冬季は閉めていた昭和新山の観光施設を通年で営業したいので、冬のイベントを考えてくれないか、というのです。私は、そういう場合にありがちな音楽ライブとか雪氷像のお祭りはおもしろくないと思いました。

 

そこで考え出したのが、「昭和新山国際雪合戦大会」です。きちんとしたルールや用具を整えて、雪合戦をかっこいい団体スポーツにしてしまおうという大胆な企画です。それまでどこもやったことのないものでした。北海道の冬には本州方面からたくさんの修学旅行生がやってきます。私は彼らをとても意識しました。雪合戦があることを知った生徒や先生たちは、いかにも冬の北海道らしいこの自然の中のユニークなスポーツに、かならずや参加してみたい、参加させたいと思うはずです。おかげさまで最初から評判を呼んで順調に成長をとげ、来年2月には28回目の開催を数えます。いまでは北欧や香港などからの参加もある大イベントになっています。

 

広告制作の世界へ

 

「昭和新山国際雪合戦大会」が評判を呼んでほどなくすると、大会の実行委員でもある洞爺湖の温泉ホテルの社長さんから、うちの広告をやってみないかと声がかかります。私はテレビコマーシャルを軸にしたプランを皮切りに、そのホテルの仕事を長く担当させていただくことになりました。「日本一の大浴場」では広告表現の規制にふれるけれど、「宇宙一」ならかまわないという、よく分からないひとコマもありました(笑)。構成やコピーはもちろん、音楽やコマーシャルソングも自分で作るスタイルはサンパレスで学んだもので、今もほんとうに感謝しています。

 

これを皮切りに、私はイベントプランナーから広告クリエイターの世界に入ります。といってもそれまでのキャリアがムダになったわけではありません。ホテルの社長さんからは、お前の企画にはお客さんを具体的に動かすことが考えられている、と誉められましたが、これは旅行代理店時代に身についた発想だったでしょう。以後私はさまざまな業種の広告をつくり、現場からさまざまなことを学んでいきます。34歳から入った広告の世界ですが、その後、「全北海道広告協会賞」をはじめ、全国の膨大な広告の中から選ばれる「日経広告賞」「広告電通賞」、そしてテレビCMではACC賞(全日本CM放送連盟)など、多くの賞をいただく仕事を重ねていくことができました。

 

 

さらなるフィールドを求めて

 

もうすぐ40歳。私は、さらに新たな環境で自分の力をふるってみたいと思っていました。ちょうどそのタイミングで、最大手の電通が全国で地域会社に再編され、札幌に電通北海道という会社が生まれることになります。クリエイターの募集があり、年齢枠は39歳まで。私は迷わず応募しました。全国から応募があったのですが、幸い採用が決まります。これで3回目の転職となりました。

 

この時代の代表的な仕事には、ある乳業メーカーのCMが上げられます。1960年代、大手乳業メーカーに対抗して北海道の生産者たちが立ち上げた会社です。北海道の人と風土が生産する乳製品の数々を、北海道の生活者にどのように効果的に訴求していくか。長く取り組ませていただいたこの仕事で、私はブランドづくりやブランドの強化ということを強く意識するようになりました。

 

また2004年には、旧ひらふスキー場(北海道倶知安町)が国際リゾートをめざして、1960年代からの長い前史の上にリフトとホテルを統合して新しいスキー場になりました。私はこのブランディングの仕事も担当させていただきました。それが現在の「グラン・ヒラフ」です。いまでも年間50日以上は滑るスキーヤーでもある私にとって、子どものころから親しんでいた山のブランディングに関わることは大きな喜びでした。

 

ニセコはいま、オーストラリアの人々を中心に外国人であふれています。このころは、1990年代後半からオーストラリアのスキーヤーたちがひらふの素晴らしさを「発見」して、ニセコ全体に新たに大きな渦が起こっていた時代。クライアント一社の事業にとどまらず、ニセコエリアのすばらしい雪質とそこで繰り広げられる楽しい時間を世界に向けて発信する、重大な務めを担った仕事でした。

 

また2012年には『ミシュラン北海道2012特別版』の発刊に関わる仕事を担当しました。あの「ミシュラン」の北海道版です。道内の農業団体などの願いを実現させたもので、「素材は一流・料理は二流」などと揶揄(やゆ)されることさえあった北海道の食のシーンをさらにグレードアップすることが目的でした。近年では全国各地の自治体が莫大な予算を用意してミシュランに地域版を作ってもらおうと活動していますが、これはやはり世界に通じるミシュランのブランド力のなせる技でしょう。北海道版では、海外用に英語版も作ってネットで無料公開しました(期間限定)。これもはじめてのことで、評判を呼びました。

 

ブランドを形づくるものとは?

 

こうした一連の仕事を通して、私の「ブランド観」は鍛えられていきました。ブランドとは何か? ブランドにどんな意味があるのか? それはどのようにして作られ、磨かれていけば良いのか?…。

 

私がいま所属するヤマチユナイテッドグループという若い企業体には、住宅環境や暮らしに関わる事業と、流通や貿易、イベントなどを手がける事業があります。全体をくくるのが「THE 100 VISION」という理念です。これはグループに100の企業・事業を生み出し、100の「個性」を持つ経営者が互いに連携し切磋琢磨していくことで、新しい価値を生み出していこうというもの。

 

グループの活動全体をブランディングすることも私の仕事です。そして私が立ち上げを担ったブランドソリューション部では、いろいろな企業のブランディングのお手伝いをしています。ここでの私は、広告クリエイター時代とちがって、自分の立てた企画をクライアントに一方的に提案することはありません。「あなたの会社のすぐれた点はこういうところです。それをもとにこういうコンセプトでこんな広告をしましょう」などとプレゼンすることはないのです。

 

主役はあくまで、その企業でモノやサービスを作り出している人たちです。そういう方々にまず、「自社の誇るべきところ、ほかには負けないところ」を自分たちで再発見していただきます。そこが固まっていけば、ブランディングの針路はおのずと見えてくるでしょう。

 

ブランドとは何によって形づくられるか。いま私は、それは広い意味の「誇り」だと思っています。作り手も売り手も、自信をもって相手に提供することができる「何か」。この何かがブランドの源泉です。そしてこれを見いだしていくプロセスには、「自分はいったい何ができる何者なのか」と自問しつづけることが欠かせません。お気づきだと思いますが、これは皆さんの就職活動にもぴったり当てはまることなのです。

 

 

<質問>担当教員より

 

Q 朝日さんの学生時代、旅行や広告の業界はまさに右肩上がりの時代でした。朝日さんがいま就活生なら、同じ針路を選んだでしょうか?

 

A 大枠でとらえれば、たしかにそれらにはかつてほどの勢いはありませんね。でもインターネットの時代になって、ビジネスはどんどん細分化されています。旅行でいえば例えばAirbnb (エアビーアンドビー)などに代表される民泊の動き、広告でいえばSNSやFBなど、それぞれに大きな可能性を持ったまったく新しいフロンティアがある。僕が学生なら、そういうところにワクワクして注目するかもしれません。

 

Q 小樽商科大学を朝日さんがブランディングするとしたら?

 

A 正式にお答えするとギャランティが発生しますから(笑)、さわりだけ言いましょう。グローバル化とスケールによる効率化がいっそう進む社会にあって、しかし逆に、「スモールでローカルであること」の価値に気づく人が増えていくのもまちがいないと思います。商大の針路もまた、その方向にあるべきではないでしょうか。

 

<質問>学生より

 

Q 広告クリエイターになるには、どんな勉強が必要ですか?

 

A 直接的で表面的な勉強は役に立たないと思います。例えば僕くらいの年齢になると、音楽はもうビートルズとクラプトンがあれば十分、などと言う人が多い。でも世の中の新しいことつねに触れていなければ、古いものの再生産に終わってしまいます。とにかく社会動向に広く目を配り、そして一方で、映画でも音楽でも、なにかひとつ興味を深く掘り下げていく対象を持っていることが大切です。

 

Q 学生時代にやっておくべきことは何でしょう?

 

A 私たちは、インターネットによって誰でも気軽に何かを発信できる時代にいます。でもどんな情報や表現にしても、コミュニケーションのベースは書き言葉にあります。広い意味の文章力をしっかり身につけておくべきだと思います。そしてちゃんとした文章もまた、表面的な勉強では身につきません。

 

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