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2018.10.31

平成30年度第4回講義:「挫折に負けるな!! 〜元公務員会計士を支えてくれた言葉たち」

講義概要(10月31日)

 

○講師:渡邊 靖雄 氏(平成12年商学部商学科卒/株式会社エスネットワークス、公認会計士)

 

○題目:「挫折に負けるな!! 〜元公務員会計士を支えてくれた言葉たち」

 

○内容:

商大時代、会計のゼミで学びながら公認会計士をめざしていた私だが、実家の事業が頓挫して進路の変更を余儀なくされた。日々の仕事に忙殺されて見失いそうになっていた目標を再び取り戻すことができたのは、友人や先輩、家族の言葉に勇気づけられたからだった。地方公務員の経験をベースに、会計監査、そして財務コンサルの現場へ。転職は私の視野を広げ、さらには自分の原点を再認識させてくれた。後輩たちの進路設計へのアドバイスを、私を動機づけ、支えてくれた10の言葉を軸に語りたい。

 

 

 

困難を乗り越えられた原動力は、目標への思いと10の言葉

 

 

渡邊 靖雄氏(平成12年商学部商学科卒/株式会社エスネットワークス、公認会計士)

 

 

 

 

公認会計士から岩内町への進路変更

 

 

 

私は岩内町(後志管内)の役場職員を務めながら公認会計士の試験に挑戦して、2008年に合格することができました。公務員在職中の合格は、道内最初の例だと思います。役場を退職して大手の監査法人に転職して、そこからこの(2018年)の春、財務会計のコンサルタント企業(株)エスネットワークスに転職しました。今年40歳になったこともあり、今日は自分のキャリアをなぞりながら、人生の岐路で私を勇気づけ支えてくれた10の言葉をあげて、皆さんの進路の参考にしていただきたいと思います。

 

 

私は札幌に生まれ、中学、高校を札幌でおくりました。白石中学校で担任だった先生からこんな言葉を言われました。

 

  • 支えてくれた言葉-1

 

「しんゆうは5種類存在する。つまり『新友』→『親友』→『深友』→『心友』→『真友』だ」

 

一生のあいだに一人でも良いから「真の友」と呼べる人がいる人生を歩みなさい、と。新しくできた友だちの中から、やがて心の友、そして真の友と呼べる人を見つけること。そして進学した札幌南高校を卒業するころ、卒業アルバムに父親がこんな言葉を書いていました。

 

  • 支えてくれた言葉-2

 

「人生は、七転び八起きだ」

 

シンプルな言葉ですが、私はその後この言葉の意味を深く噛みしめることになります。

 

そして大学進学。実は片想いの女の子が受験に失敗してたと勘違いして、私も動揺しても浪人してやろうと思っていた矢先・・・詳しくは省きますが(笑)、結局現役で合格したものですから、私はなんだか勢いで商大に入ってしまいました。

 

  • 支えてくれた言葉-3

 

「成果は努力に比例する」

 

これを言った彼は北海道警察に入り、同期の出世頭として活躍しています。スポーツや芸術の分野であれば生まれついた才能の多寡に左右されるだろうけれど、大学の勉強程度のことは、努力次第でだいたいなんとかなる。彼が言いたかったのはそういうことでした。努力しても成果が上がらない人は、方法が間違っているのです。

 

ところが、会計士めざして努力を積み重ねていた私に大事件が起こります。会社勤めだった父が札幌の中心部でそば屋をはじめたのです。しかしわずか3カ月で赤字が膨らみ、撤退を決めます。ラーメン店に改装してこれを売却することにしたのですが、仮契約の段階で先方の方が急死。本契約が済んでいなかったので、一千万円単位の経費はまるまる両親が負ってしまいました。4年生の春のこと。大学を辞めて働こうかと思いましたが、両親はそれはダメだと言ってくれました。

公認会計士の試験は5月にまず短答式の試験がありますが、実家がこんな状態の私は勉強に集中できず、当然落ちるべくして落ちました。学友たちは3年生の秋から就活していますから就職しようにも私は完全に出遅れ、もはや秋の地方公務員試験を目ざすしかありません。そこまでわずか3カ月弱。一日15時間の勉強を課しました。しかしそれでも圧倒的な勉強時間が不足していたため、試験点数の比重が高い「数的推理」と「判断推理」を最優先で勉強する戦略を立てました。あとは勢いで(笑)。勉強しながら、どの自治体を狙うのが合格しやすいかを考えました。札幌や小樽は人気がありすぎる。札幌に比較的近いエリアとして、私は後志に狙いを定めました。そうして3カ月弱の準備でなんとか岩内町役場に入庁することができました。2000年の春でした。まずはじめは国民保険の係に配属されました。

 

 

 

激務が鍛えてくれた目標への思い

 

 

2000年といえば皆さんが生まれたころですね。イチローが大リーグに渡り、夏にはシドニーでオリンピックがありました。携帯電話でiモードがブームとなり、女の子には厚底ブーツが流行っていました。

 

岩内町は札幌から百キロくらいの、積丹半島の西の付け根にある港町です。岩内に暮らしはじめた私ですが、両親は慣れないラーメン屋で日夜借金を背負って働いています。手伝うしかありません。私は金曜日の勤務が終わるとすぐ帰札して、金曜日の夜から日曜日の深夜まで店を手伝いました。なにしろ味は素人に毛の生えた程度の店ですから両親は、うんと長く、よそがやっていない時間帯まで営業するという戦略を立てました。私は月曜日の早朝札幌を出て岩内に戻ります。

しかし冬になると稲穂峠はとても滑るのです。ある朝峠でキツネの死骸をよけようと急ハンドルを切ったところスリップ。ガードレールに激突しました。体は大丈夫でしたが、車は廃車になりました。心配をかけるので親には言えません。格安の中古車を買ったのですが、その車のローンと親への仕送りや家賃を引くと、月給の残りはほんとにわずかです。食べることもままならない。かくなる上はと、私は一日一食だけですごすことにしました。昼めしを抜くとまわりにいろいろ言われますから、食事は昼だけです。20代の若者ですから、つねに栄養失調状態。

 

ある週末、都合があってそのときは札幌に帰れなかったのですが、仕事は激務だし、私はこのままでは死んでしまうかもしれないと本気で思いました。そこで恥も外聞もなく、岩内に最初に下見に来たときに入った食堂に行ったのです。そして、腹が減って死にそうなのでどうかツケで何か食べさせてほしい、と頭を下げました。事情を言うとそこのおかみさんは、よし分かった、と言って、それからひと月ものあいだ晩ご飯(まかない食)を食べさせてくれ、帰りには朝の分も持たせてくれました。もちろん全部タダでです。知っている人が誰もいないまちで最初に入った「天富」というその店に、私はいまも足を向けては眠れません。

 

 

国保の係に2年半ほどいたのち、私は商工観光の観光部門に移りました。後志の中でも積丹やニセコは観光客を引きつけるエリアですが、岩内はそうはいきません。どうしたらわが町に観光客が来てくれるのか。その施策を動かす仕事です。上司はこう言いました。

 

  • 支えてくれた言葉-4

 

「官費で遊べ!」

 

これは説明を要する言葉です。上司の意図は、税金で遊べ、ということではありません。なにしろ当時の岩内は、全国ワースト10に入るくらい財政状態が悪化していましたし。上司の本意は、お前たちが自ら楽しいと思えるまちでなければ、誰が観光になど来るものか。まず自分たちが楽しんで暮らせ! ということにありました。岩内の日々の暮らしを楽しめるような発想に立て、とハッパをかけられたのです。

 

一方でそのころ、先の真友とはちがう真友からこんなことを言われました。彼は受験直前に父を亡くすという試練を乗り越えて京都大学で学び、いまは海外で活躍している研究者です。

 

  • 支えてくれた言葉-5

 

お前、「ぬるま湯に浸かりすぎていないか?!」

 

実家の借金の返済にも目途が立ってきていました。毎日は過酷な残業続きで仕事に明け暮れていたこともあり、公務員を3年してみると、新しいことにチャレンジする気持ちも薄れてきます。彼は、「お前は公認会計士になるんじゃなかったのか?!」と私を責めました。ハッとしました。これじゃダメだ。よしっ、働きながら、本気で公認会計士をめざす! 親にもそう宣言して、勉強を再開しました。

といっても必ず残業がありますから、帰宅できるのは1112時。ときには2時3時ということもあります。帰ってからするのは無理なので、朝5時からの3時間と、昼の30分(家が近いので昼食は毎日家で食べていました)、3時間半しか取れません。休める土日には一日中勉強です。

 

大原学園の通信教育を受けていたのですが、あるとき通信欄で先生に対して、勉強が進まない状況につい弱音を吐いてしまったことがありました。するとその赤ペン先生の返事がすごかった。こうありました。

 

  • 支えてくれた言葉-6

 

「何のために会計士になりたいのですか? 目的があるのなら、モチベーションが下がるなんてありえないでしょう」

 

これには参りました。確かに商大時代に会計士の勉強をはじめたとき、私はこんなことを考えていました。自分は地域に根ざした公共的な視野をもつ公認会計士になって、北海道経済に貢献したい、と。北海道は明治期の開拓以来、民ではなく官が動かしてきた土地です。地域経済は公共事業に依存してきました。だから北海道経済がずっと低迷しているのは、つまるところ行政が悪いんだ。自分はそこを何とかしたい、と。

初心に返って勉強に打ち込みました。

 

しかし成果はすぐには出ません。論文式の試験に2度落ちたとき、生まれて間もない子ども膝に乗せてあやしながら、妻が私の目をまっすぐに見て言いました。

 

  • 支えてくれた言葉-7

 

「3回で合格できないのならあなたは馬鹿なんだから、馬鹿は馬鹿なりの、身の丈にあった生活を考えてください」

 

ほんとにひどい言葉です(笑)。しかしいくら悔しくても言い返すことはできません(妻は岩内町役場入庁の同期でした)。とにかく結果で応えるだけです。なにしろ時間がないので、このころから教材のDVDは倍速で見ることにしました。土日は15時間くらい机にかじりつきました。子どもがひどく夜泣きしたときなどは、車に乗せると泣きやむので神恵内まで行って、昇る朝日を浴びながら会社法を暗記、とか、40度の熱があっても勉強しました。3回目の短答式試験は8月ですが、ふた月前くらいになると2時ころガバッと飛び起きて、気がつけば正座していました。あぁあと3時間も寝られる、と安心して布団に入りました。かなり追い詰められていたのです(笑)。でも一方で、最後の1週間で急激に伸びていく自分を実感しました。今度は受かるぞ、と確信できました。

そして2008年の10月、ついに合格。妻は言いました。「すべて、あなたを発奮させた私のおかげよ!」(笑)。

役場の上司にすぐ相談して、岩内町役場を退職しました。そのときまで、職場では会計士に挑戦していることは口外していませんでした(皆なんとなくはわかっていたでしょうけれど)。

合格した2008年は、夏には北京オリンピック。そして秋にはリーマンショックが世界経済を襲いました。日本でiPhoneが発売されたのもこの年でしたね。

 

 

財務会計の力で地域の未来に参画したい

 

 

ちなみに、三大国家資格とも呼ばれる公認会計士の試験はおよそこんな仕組みです(三大とはいくつかの解釈がありますが、一般には医師・弁護士・公認会計士)。短答式試験が4科目で(財務会計論、管理会計論、監査論、企業法)、会計学や監査論、企業法に租税法、そしてもうひとつを選択する論文式試験が、7科目。自分の感触では、合格するためには45005000時間くらいの勉強が必要です。

弁護士や医師同様に公認会計士は、高度な知識を駆使して多数のクライアントを相手にする難しい仕事です。ではそもそも公認会計士ってなんでしょう。それはごく簡単に言うと、財務諸表の監査を独占的にできる資格をもつ仕事です。監査以外では、財務書類の調製や財務に関する調査や立案をします。企業のM&Aや再生、あるいは株式公開のコンサルティング、IFRS(国際会計基準)に関わるサービスなどですね。また公認会計士は、申請登録すれば税理士としても仕事ができます。

 

 

さて資格を取って、これからの人生をどうするか。役所勤めのかたわらの就活ですから、何日も東京に行って面接を受けるのは無理です。札幌で面接が受けられるところから、幸いにあずさ監査法人という、日本のいわゆる4大監査法人のひとつに入社することができました。こうして私は、実家のある札幌に、家族と共に10年ぶりに帰ってきました。

札幌での新生活をはじめてしばらくして、緑丘会の大先輩で当時の事務局長からこんなことを言われました。

 

  • 支えてくれた言葉-8

 

「東京に出てこないとダメだ!」

 

世界に直結した日本の経済と深く関わるためには、やはり東京で仕事がしたい。そう強く思い、そのために頑張ろうと決心しました。一方で公認会計士として仕事をするには、2年以上の実務経験と3年間の実務補修所を経た上で最後の修了考査を受けなければなりません。これはA3の問題用紙で20Pもある量を3時間で解かなければならないレベルのものを5科目、2日間にわたってトライする過酷な試験です。それをこなして2012年、私は晴れて公認会計士登録にこぎつけました。そして東京で仕事をしたいとアピールし続けて、2014年、あずさ監査法人の東京事務所に異動になりました。35歳。岩内に比べればなにもかもちがう世界で、自治体出身ということもあり、東京都の行政監査などの仕事を担当しました。

 

 

そして9番目の言葉は、緑丘会の現理事長、島崎憲明さん(元・住友商事副社長、現・野村ホールディングス取締役)からいただいた言葉を上げます。

 

  • 支えてくれた言葉-9

 

「志を持て! そして会計士なら海外を目指せ」

 

東京は日本経済の中心ですが、世界経済の中心ではありません。世界のことを知りたければ、やはり一度海外で仕事してみたい。いまは強くそう思っています。そのステップとして私はこの春(2018年)、監査法人から、(株)エスネットワークスという財務会計コンサルティング企業に転職しました。社員の三分の一くらいは外国人で、彼らはみな、母国語のほかに三つ四つの言語を自在に使えます。世界の経済動向を肌感覚で実感できる職場です。英語はあくまでツールのひとつです。会計の世界でそれを使いこなすためには、あくまで高度な専門知識と、そのベースとしての人間力が重要だと思っています。

 

 

そして最後の言葉を上げます。

 

  • 支えてくれた言葉-10

 

「すべては挑戦。挫折に負けるな!」

 

大学を出て就職してもいまの時代、その会社で定年まで勤め上げる人は少ないでしょう。私と同じように、転職を重ねるのが当たり前の人生だとしたら、そのすべてがうまくいくことなどありません。そもそも人生の多くのことは思い通りには行かないものなのです(笑)。だから失敗のたびに立ち止まってうなだれていては、進めません。すべては挑戦なのです。皆さんには自分の小さな体験から、これから必ず何度も訪れる人生の難局に対して、「挫折に負けるな!」というメッセージを贈りたいと思います。

 

 

 

 

 

<渡邊 靖雄 さんへの質問>担当教員より

 

 

Q 岩内町の時代の仕事をもう少し具体的を教えていただけますか?

 

 

A 「官費で遊べ!」と言われた商工観光課の時代では、例えば日本最小の道の駅と思われる道の駅や海水浴場、町営温泉の管理をしたり、スキー場の(現・IWANAI RESORT)運営の仕事もしていました。皿洗いから、スノーモービルに乗ったパトロールなど、とにかくいろいろやったのです。ちょっと自慢したいのが(笑)、まちの老舗のテント屋さん、村本テントさんの帆布バッグを道の駅に置いて最初にブランディングさせてもらったこと。村本さんの製品は、いま各地で引っ張りだこです。

 

 

Q AIなどの進化で、財務会計の仕事もこれからさまざまに変質していくと思われます。財務会計の近未来をどのように予測しますか?

 

 

A 世の中の会計の仕事の9割くらいは、やがてAIが担うことになると思います。会計士の仕事は、残り1割の、複雑な状況や事象の中から最適な判断をすることに集約されていくと思います。人と人が顔を合わせて、最後には「ありがとう」、「こちらこそ」、と呼び交わし合えるコミュニケーション能力が重要になるのではないかと考えます。

 

 

 

Q 渡邊さんご自身の近未来の進路はどのようにお考えですか?

 

 

A 少子高齢化で日本の各地が疲弊していくのは、まず地域に働く場がないからです。いま緑丘会の後輩が関東で、地域のシニア人材を活用した新しい切り口のビジネスを起こそうとしていて、そこに参画する予定です。先例のスキームを磨いて、それを北海道でも展開したいと考えています。また、私はいまでも岩内とのつながりを大切にしているので、先進的な事例を岩内に持ち込んで恩返しをすることがひとつの目標です。

 

 

 

 

<渡邊 靖雄 さんへの質問>学生より

 

 

Q 公認会計士をめざしたのは何故ですか?

 

 

A 実ははじまりは、私が在学中に受けたこのエバーグリーン講座なのです。公認会計士の先輩が登壇されて、そのお話にぐいぐい引き込まれました。大都市ではなく地方に貢献するような仕事をしたいと漠然と思っていた私は、地域に役立ついろいろな仕事の中に、財務会計を基盤にしたものがあるんだ、と気がつきました。人口減がさらに進む小さなまちでは、財務の基盤を立て直せば十分に持続できる会社が少なくありません。信用や商品力がちゃんとあっても、財務が弱いと立ちゆかない時代です。私はその分野で仕事をしたいと思いました。実家の都合から就活をはじめて地方公務員をめざしたのも、地域のために、という根は同じです。

 

 

 

Q 「成果は努力に比例する」とおっしゃいました。でも、その努力が方向違いで実は無駄だったということもあると思うのですが。

 

 

A 良い質問ですね。その努力が正しいか間違っているか、確かにその渦中ではわからないこともあるでしょう。範囲を限定して会計士などの試験勉強で言えば、得意な分野ばかりやってもダメです。そして、極端な苦手分野をなくす。つまり努力が偏ってないかをつねにチェックしてください。知識が点の分散ではいけません。点が線になって、線が面になり、面が立体になるように。私が受かった年は、知識が立体になっていくような手応えを体感しました。大学受験でも公務員試験や会計士の試験でも、浪人を重ねるのはリスクがありまです。努力することが手段ではなく目的になってしまわないように、何のために努力をするのかを明確にすることが重要です。そこがぶれてはダメです。

 

 

 

Q 学生時代の過ごし方へのアドバイスをお願いします。

 

 

A 学生時代は、その後の人生の基盤を作るための、圧倒的なインプットの時代であるべきです。ビジネス社会に出ると、今度はたくさんのアウトプットが求められますから(もちろん日々のインプットは欠かせませんが)。私は、できない理由をべらべら話すような大人にはなりたくないと思っていました。ですからとにかくいろんな分野のインプットの質と量を高めようと意識していました。

どんな進路に進んでも、仕事のベースは学生時代にあります。ゼロから1を作り出すのは天才的な人間しかできないでしょうが、1を100にすることは、実はたいていの人にできるのじゃないかと思います。そのためには、このことなら世の中で10人のうちの1番になれるという分野を3つくらい持つと良いと思います。千人の中の1番になるには才能が必要でしょうけれど、10人のうちの1番なら努力次第でなんとかなります。それを3つ掛け合わせる。つまり、1/10×1/10×1/101/1000となれば、唯一無二の存在になれると思います。

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