- <担当科目>
- 民法基礎I、民法基礎II、民法II、民法III、民法IV
岩本尚禧 教授
IWAMOTO Naoki
認知症患者は遺言を作成することができるか?

遺言は、遺言を作成した者がこの世に残した最後の意思表示です。たとえ遺言作成者が認知症患者であったとしても、その遺言を可能な限り有効として扱ってあげたい、と思うのが人情でしょう。しかし、認知症によって判断力の減退した者は「自分の本当の望み」さえ理解できない可能性があります。
そのため、認知症患者の遺言を安易に有効として扱えば、本人が望んでいない形で遺産が配分される危険が生じます。遺言者のために遺言を有効として扱うことが実は遺言者に大きな不利益を与える結果になるかもしれない…こうした不幸を減らすことが、この研究の目的です。
遺言は民法という法律の対象ですが、しかし認知症それ自体は医学の対象です。「認知症患者の遺言能力」を巡る諸問題は、法学と医学の相互の協力なくして解決することはできません。この研究では、医学的な知見も取り入れながら、課題の解決を目指しています。
人に「自由意思」はあるか?
進学、就職、結婚など、人生は決断の連続です。これらの決断は自由意思に基づいて行われている、と私は信じています。そもそも司法制度は自由意思の存在が前提です。
例えば、「罪を犯さない、という決断が可能であったのに、自ら犯罪の実行を決意したのだから、その結果について責任を負うべし」という理屈によって刑罰は正当化されます。ところが、学問の世界では自由意思の存在を否定する勢力が相当に強力です。神学、哲学、物理学、心理学、そして法学においてさえも自由意思の存在を認めない研究者は少なくありません。
もしも自由意思が存在しないなら、なぜ人は罰せられるのか?もしも自由意思が存在しないなら、人生における決断は何を意味するのか?
もしも自由意思が存在しないなら、「自分にとって貴重な財産を、自分にとって大切な人に分け与える」という遺言は、なぜ作成されるのか?犯罪者の行動も、認知症患者の行動も、その他の一般人の行動も、その全てが「神の思し召し」の結果なのでしょうか?ならば「人が生きる意味」とは?
自由意思の存在証明は法学のみならず、あらゆる学問に影響を及ぼす根源的課題でもあります。自由意思は存在するのでしょうか?
「民法を制する者は司法試験を制する」

私は民法の研究者ですので、私のゼミは「民法ゼミ」です。
遺言、進学、就職、結婚その他もろもろ、人の一生に関わる法的な出来事は、たいてい民法の対象です。民法は人の一生に関わる法律なのです。実際に民法は「出生」の規定に始まり、「死亡」の規定で終わります。
民法は司法試験を含めた各種の法律系資格試験において、ほぼ必須科目です。また、民法は各種の公務員試験においても最重要科目です。なぜなら、市民にとって最も身近な法律である民法を知らない者は法律家も公務員も務まらないからです。そのため、民法ゼミを希望する学生は法律系資格試験や公務員試験を目指す人が多いです。ゼミでの勉強が自分の進路実現のための勉強に直結しますから、学問と実益を両立できます。
是非、民法ゼミへ!
「知っている」ことに価値はない?
「知りたいことがあるならタグればいいじゃない」。大抵のことはAIが教えてくれます。研究者もAIを活用しています。もはや単なる知識に価値はない時代なのかもしれません。
「知っている」こと自体に価値がないなら、「知っていること」に新たな価値を付け加えることができる能力が求められます。ところが、知っている事柄に新たな価値を付け加えるためには、そもそも知っている状態であることが求められます。例えば、膨大な裁判例データをAIに学習・整理させ、そこから人間が新しい事件処理の可能性を読み取ることができれば、その能力は新しい価値を提供できるはずですが、そのためには「裁判例の何たるか」を知っていることが前提です。
つまり「知っている」こと自体に価値はないが、しかし「知っている」ことには意味がある、ということです。むしろ重要なことは「何を知っているべきか」。
小・中・高の勉強は「(最低限の)知っている」状態を鍛え上げるために不可欠なものです。今の勉強は、いずれ身に付けることが求められるであろう新たな能力の礎(いしずえ)となります。このことを意識しつつ、そして、その先を見据えて、今の勉強を着実に進めて欲しいと思います。


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