2025.10.22
令和7年度第3回講義:大坂 則幸さん(H9卒)「私の学生時代とバス会社が行うバス事業以外の仕事」
講義概要(10月22日)
○講師:大坂則幸氏(1997年小樽商科大学商学部企業法学科卒業/北海道中央バス株式会社執行役員不動産・関連事業部長)
○題目:「私の学生時代とバス会社が行うバス事業以外の仕事」
○内容:
小樽商大に5年間通うことになった私がもっとも熱中したのは、緑丘祭実行委員会、自治会執行部、そして応援団の活動だ。卒業後北海道中央バスという、地域の生活インフラを担う企業で仕事をする私の原点には、こうした全学的な組織で活動をした日々がある。いまも小樽商大応援団に関わる私から、どのような学生生活を送ってほしいかについて、自らの経歴を振り返りながら話をしたい。
商大応援団の活動と、バス会社の事業の共通点とは
大坂則幸氏(1997年小樽商科大学商学部企業法学科卒業/北海道中央バス株式会社執行役員不動産・関連事業部長)

応援団流の自己紹介
まず応援団流に自己紹介をさせていただきたいと思います。
(「小樽商科大学____第79代応援団団旗長兼鼓手長____函館ラ・サール高校出身____大坂則幸____と名乗る自己紹介エールを切る」)

私は1992(平成4)年に入学して、5年かかって卒業しました。楽しい学生生活でした。学科は企業法学科で、ゼミは労働法の島田陽一ゼミ。サークル活動では、緑丘祭の実行委員会、それから自治会の執行部。そしていまエールを切った、応援団。第79代応援団団旗長兼鼓手長を務めました。
現職は、北海道中央バス株式会社の執行役員で、バス事業ではなく、不動産・関連事業部の部長として仕事をしています。趣味としては、小樽商科大学応援団後援会の監督をしています。またバス会社に勤めてはいますが、いわゆる撮り鉄であります。しかし最近は撮りたい鉄道がなくて、もっぱら応援団の後援会の活動が中心です。たまに母校を訪れて、後輩たちに技術的な指導などをしています。
北海道中央バスの概要
前半は、バス事業の話をします。
皆さん北海道中央バスをご利用いただいていますかね?小樽駅から商大線に乗ったり、札幌から高速バスに乗ってくださっている方もいると思います。北海道中央バス(株)は、石狩・空知・後志エリアの路線バスや、全道各地への高速バス路線を運行しているバス会社です。そしてバス事業のみならず、建設業とかビルメンテナンス業、それから不動産や観光事業、あるいは公衆浴場業とか物品販売、自動車教習所、さらに介護福祉事業、保険代理店業なども行っています。
北海道中央バス(株)は札幌証券取引所に上場していて、グループ企業17社。公共性の高いバス事業が軸になっていますから、地域とのつながり、地域への貢献を重視した事業を展開しています。
本社は、札幌ではなく小樽にあります。日本銀行旧小樽支店のはす向かい、色内1丁目。そこに総務部門や労務部門などがあります。ただ事業は札幌が中心になりますので、私も中央バス札幌ターミナルのビル(札幌市中央区大通東1丁目)で仕事をしています。
バス業界の現況
バス業界の現況をお話しします。
近年の報道でいろいろ取り上げられることですが、運転手不足によって路線の廃止や大幅な減便が続いています。高速むろらん号や高速しゃこたん号も、この11月で廃止になります。
なぜこういう事態が起こっているのかー。ひとつには、2024年問題があります。建設業や医療関係などにも共通しますが、それまではドライバーに対する時間外規制が、実情に合わせて一定程度は仕方ないよね、と猶予が設定されていたのです。しかしこれが改められました。労働環境をしっかりと改善することになり、会社としては運転手を長時間働かせることができなくなりました。
具体的にいうと、退勤から出勤までの時間が制限されました。それまでは退勤から出勤するまで8時間空いてれば良いというルールだったのです。例えば夜10時に退勤すれば、翌朝6時に出勤するシフトが可能でした。しかし9時間空けなさい、となると、夜10時に帰った人は朝7時以降でないと働けません。そうなると夜遅い便や早朝便のダイヤが組めなくなりました。
コロナ禍前の2019年の夏のダイヤでは、北海道中央バス全体で平日1日9,600便ぐらいのバスが走っていたのですが、これが今年の夏ダイヤで約6,400便、三分の二くらいにまで減っています。地域に貢献すべき公共交通機関としては心苦しいところですが、民間企業ですから赤字のまま運行はできません。
過疎路線に対しては、一定の条件のもとで公的な補助金をいただいています。全体で数億円の規模になりますが、現在の法制度では、地域の公共交通は地域が守る、つまり自治体が責任を持つことになっています。そのために当社が路線を廃止する場合は、自治体から了解を得ることとしています。
また、人口減少が進んでいる中で果たしてバスという輸送モードが必要なのか、という議論もあります。特に小さなまちに行きますと、ワンボックスカーのようなタクシーとか、オンデマンドで運行するバスが機能している例もあります。
新幹線の並行在来線問題もあります。JRをバスに移管するために補助金が用意されても、運転手がいなければ走らせることはできません。ことはお金の問題だけではないのです。
ちなみに、小樽駅前と商大を結ぶ小樽商大線のことを少し振り返ります。この路線は実は新しい路線で、私が3年生のとき、1994(平成6)年に開設されました。商大や小樽市の方から要請があったようです。商大の停留所にはバスが転回するための大きな土地が大学側から用意されました。また小樽市は、地獄坂の途中の交差点のところと緑3丁目の停留所のところにロードヒーティングを敷設して、バス運行に必要な整備を行いました。
バス会社でのキャリア
ここからは私の個人情報ですが(笑)、北海道中央バスに入ってからのキャリアをざっと説明しましょう。
就活にあたって、私は観光地である函館出身で鉄道や旅行好きだったこともあり、社会の交通インフラや観光の分野に興味があって北海道中央バスを志望しました。
しかしバス会社に入ったものの、最初に配属されたのは、関連事業部事業課というところ。本社と同じ建物(歴史的建造物・旧北海道銀行本店)にある、開業したばかりのワイン・レストラン、小樽バインでした。仕事は経理事務です。でも、最初から現場の店舗で日々の収支を体感する職場にいたことが、のちのち活きていったと思います。
26歳でバス事業での営業担当をして、31歳で真栄営業所で業務主任になりました。33歳(2006年)から6年間は小樽事業部の庶務主任になり、同時に中央バス労組小樽支部書記長を務めました。
途中飛ばしますが41歳で中央バス観光開発に出向して、観光事業本部次長。業務課長、総務課長などの仕事をします。舞台は天狗山です。
44歳では畑のちがう分野へ。グループ会社の(株)泰進建設へ出向して、46歳では建築営業本部の副部長の仕事をしました。この時代は、介護福祉分野での仕事も経験しています。そして2020年、47歳から現在までは、不動産事業を軸にした関連事業の分野で働き、今年(2025年)は不動産事業と関連事業部門の責任者になりました。
組合の活動について、少しお話をしようと思います。
私は北海道中央バス労組の小樽支部書記長という肩書きでしたが、中央バスには、ユニオンショップ協定により、正社員全員が組合員になる仕組みがあります。先ほどお話をした乗務員1,000人を中心とした組合です(事務員・整備員も同じ組合に所属します)。小樽支部や札幌支部があってその上に本部がありますが、基本的にそのトップを務める支部長や委員長は、当社の場合主に乗務員出身者になります。組合活動では会社側と事務調整が必要になりますので、総合職が、書記長という形で調整役として入るわけです。
組合というと皆さんのイメージでは政治や政党運動との関わりが強いと思うかもしれませんが、目的は職場をより良くするための活動にあります。そのための方法として政治と関わるわけです。また会社では部長、係長、一般社員といった、上司部下の関係からなる縦のつながりが基本です。これに対して組合は働く仲間のつながりですから、横の関係が基本になります。この時代は、組織をうまくまとめながら動かしていくマネジメントを、実践として学ぶことができたと思います。
政治との関わりで言えば、労働環境の改善につながる法改正のために、組合として政策要請として動くことがあります。例えば乗務員不足解消につながる大型二種免許をめぐる問題です。
かつて大型二種免許を取るには「年齢21歳以上かつ普通免許等の保有歴3年以上」という条件がありました。2022年5月からこの条件は「年齢19歳以上・普通免許等の保有歴1年以上(特別な教習が必要)」と緩和されました。つまり、今までは経験者の中途入社しかできなかったものが、高卒で入社して1年経てば大型二種免許が取れるようになったのです。
私は商大時代に労働法のゼミで学びましたが、そこで学んだ基礎的なことが、この時代の私には結果として役に立つこととなりました。

バス以外での仕事、観光や不動産
皆さん小樽天狗山に遊びにいったことがありますか?札幌の方は、意外に天狗山を知らない人も多いと思います。天狗山ロープウェイは北海道中央バスグループが運営しています。天狗山はかつて市民スキー場でしたが、1979(昭和54)年に当社がそこにロープウェイを架けて観光拠点を作ったのです。
小樽商大の皆さんは小樽観光の状況に興味を持っていると思います。昔から小樽の弱点は、旅行客がほとんど日帰りしてしまうので、小樽にお金を落としていかないこと。宿泊してもらって夜の観光も楽しんでもらうことが重要な課題でした。そこで中央バスはロープウェイで小樽の夜景を楽しみましょう、と新たな観光メニューを打ち出したのです。北海道で夜景が名高い函館山、札幌藻岩山、そして小樽天狗山。これが北海道三大夜景です、と(言った者勝ちの感もありますが)。
私が天狗山に関わった10年前は、インバウンド政策が動き始めたころで、それを追い風に、当時から台湾や香港、韓国からのお客様が多く、加えて、東南アジア方面(タイやベトナム)へも天狗山のPRに努めました。
また、東京で「クルーズ船セミナー」として、観光協会の方などと一緒に、船舶会社や旅行業界の方々を集めての説明会に参加しました。当時クルーズ船が入るのは、いまのように第3埠頭ではなく、勝納埠頭でした。クルーズ船が入港すると、そこで天狗山のディスカウントクーポンを配ったりもしたのです。いま思えばきわめてアナログ的な手法ですね(笑)。
また2016年に北海道新幹線が函館(新函館北斗駅)まで延伸することに合わせ、東京からだけじゃなくて、北関東や東北からもお客さんを引っ張ろうと、仙台や青森にプロモーションに行ったこともありました。
またこうした社外での活動のほかにこの時代は、ロープウェイの運転や整備をする人たちの労務管理とか、スタッフのマネジメントも行っていました。
10年前は、天狗山ロープウェイの輸送人員は年間で30万人ぐらいでしたが、最近の数字を見るとそれが56万人ぐらいに伸びています。逆に天狗山行のバスに一般市民が乗り切れないなどのオーバーツーリズムの問題も発生している状況ですね。
ようやく、いま私がやっている仕事、不動産事業について少しお話しします。
軸になるのは、テナントビルの賃貸管理です。
北海道中央バス札幌ターミナルの地下に食堂街があったり、北広島駅西口には自社ビルがあります。バス待合室を兼ねたオフィスビルです。向かいにはこの3月(2025年)に開業したトナリエ北広島さんがあります。
また小樽郵便局の筋向かいには、歴史的建築物に指定されている建物(旧三菱銀行小樽支店)を活用した小樽運河ターミナルビルという物件もあります。
道央自動車道の休憩所、砂川ハイウエイオアシスも当社の所有で、現地のグループ会社が運営しています。
さらに「マイラシーク」という、サービス付き高齢者向け住宅が、小樽に2棟(塩谷・手宮)、札幌に1棟(白石区南郷通)あります。
ニセコアンヌプリ国際スキー場のリフトやゴンドラも、当社が設置している施設です。
またニセコ地区では人手不足も深刻なのですが、現地で働く人のための住居も不足しています。そのためにスキー場関連の季節雇用者向けの従業員寮や、北海道中央バス本体からニセコに出向する社員のための社宅を建てて、それらを不動産物件として私たちが管理しています。
札幌市白石区では「南郷の湯」という公衆浴場も営業しています。
ここはもともと北海道中央バスの南郷営業所があったところでした。これが移転したので、跡地の利用です。同じ敷地内にはいま言ったサービス付き高齢者向け住宅や薬局、飲食店もあります。
ところで公衆浴場とスーパー銭湯はどう違うか、分かりますか?
スーパー銭湯は民間の娯楽施設であり、料金は事業者が自由に決められます。24時間営業とかゲームコーナーを作って収益をあげることもできます。これに対して公衆浴場は地方自治体が公衆浴場法に基づいて認めた施設で、地域住民の公衆衛生のために設けられた生活インフラです。ですから料金も行政の審議会などによって定められています。
われわれが公衆浴場、マチの銭湯にこだわったのには、やはり地域の生活に貢献する、という企業理念があるからです。スーパー銭湯ではなく公衆浴場を作ったのは、当社らしい事業展開だったな、と改めて思います。
それから、私が担当する分野には、広告事業もあります。車体全体を広告にしたペイントバスとか、車内に貼るポスター、そして停留所を媒体とする地域の広告ですね。病院などの広告を見たことがあると思います。
バス路線の減便や廃止のお話をしましたが、残念ながら当社の本業であるバス事業そのものは縮小傾向にあることは間違いありません。その中でスキー場のような観光事業や、不動産事業といったバス以外の事業を少しずつ拡大していくことが、当社の進路になっています。
緑丘祭実行委員、そして応援団へ
さてこれからは緑丘祭実行委員会や自治会執行部の思い出や、応援団、私が関わっている応援団後援会をめぐる話です。
いまの皆さんには考えにくいと思いますが、我々の時代(皆さんのご両親と同世代だと思います)には、商大に5年間通ったという学生が4人にひとりくらいいました。何の自慢だ、という話ではありません(笑)。卒業祝賀会で当時の秋山学生部長(のち学長)が、「卒業生の皆さん、今年の留年率は24.○%でした!」と発表するのが、恒例行事だったのです。時代は違うもののあえて私は、小樽商大を4年で卒業するのはもったいないですよ、と言いたいと思います。
商大に入って私がまず関わったのは、6月の緑丘祭の実行委員会でした。第40回の緑丘祭です(今年2025年は第73回)。
そしてそのあとすぐ、6月に北海道大学応援団とのあいだの「対面式」があり、その助っ人として参加しました(対面式とは、小樽商大と北海道大学のあいだで運動部の定期戦が始まるのに先駆けて毎年小樽と札幌で交互に行われる行事です)。
緑丘祭が終わったあと、緑丘祭実行委員会のすぐ隣に部屋があった自治会執行部に入り、冬になって、応援団に入団となります。
2年生になって、第79代の応援団として小樽の花園グリーンロードで対面式を行います。商大の応援団は、2年生が団長を務めます。そして第41回の緑丘祭の実行委員会のメンバーとして、情報宣伝やパンフレットなどを担当しました。
緑丘祭の実行委員は3年生が主力ですから、3年生では緑丘祭の仕事がメインになりました。またこの年は応援団の1年下の後輩がいなかったので、第79代のメンバーで札幌の北大に赴いて対面式を行いました。一方で先ほどふれましたが、この年に北海道中央バスの「小樽商大線」が開設されました。路線開設のセレモニーとして、中央バスの古いボンネットバスが小樽駅から商大まで走ります。そこには山田家正学長が乗っていらっしゃいました。そして大学会館の前で後輩の応援団員が運転手さんとバスガイドさんに記念の花束を贈呈したのでした(応援団から花束をもらった運転手さんとバスガイドさんは嫌だったと思います[笑])。
4年目、平成7年には私は自治会執行部の副委員長を務めました。この年も応援団の人数不足で、花園グリーンロードでの対面式を手伝います。そして5年目も同様で、札幌の大通公園で行われた対面式を手伝いました。
応援団を強調していますが、実は商大時代の私の活動の軸は緑丘祭の実行委員会と自治会執行部で、年に一回ある初夏の対面式のときだけとにかく応援団をやる、という具合でした。
緑丘祭自体の話も少ししましょう。当時のパンフレットを見ていただいていますが、1993年第41回の緑丘祭のテーマは、「山火事’93」。炎上しましょう、という意味ですね(笑)。43回のテーマは、「其の弐のはじまり」。
私たちが入学する前の緑丘祭は、講義棟だけで開催されていました。いまのように中庭にテントが張られることもなく、「病院のお祭り」などと揶揄されていたのです。私たちの時代になってから図書館・中庭前にテントを張り、外にステージを組んで企画を行うなど、お祭り自体が変化してきました。「其の弐のはじまり」、というテーマがそのあたりの空気を語っていると思います。
当時の開催日程は4日間。夏休み直前の7月に、木曜から日曜までの4日間が設定され、木曜日には体育会主催の駅伝大会。図書館と旭展望台を往復しました。金曜が前夜祭でダンスパーティ。いまでいえばクラブですね。自治会から予算をもらっている中で自治会費を使ってそんなことやって良いのか、といった議論もありました。でもそれで一人でも多くの商大生や市民が祭に参加してくれれば全学的な行事として良いではないか、となりました。タレントさんを積極的に呼ぶようになったのも我々の時代です。
そして土・日が本祭です。出店やステージが繰り広げられました。坂を利用した流しそうめんは、市民の皆さんにも大好評の名物企画でした。

自治会執行部での活動
副委員長を務めた自治会執行部のことも話しましょう。95年の活動方針を書いた議案書を見ていただきます。
組織図の中に、「学生寮担当部」という部があります。そして体育会や緑丘祭実行委員会と並列で応援団もあります。応援団は自治会の外局扱い。つまり全学的な活動をする団体という位置づけでした。
我々の時代は、学生と大学側が激しくぶつかった、いわゆる学生運動が終わったあとの時代です。ただ一方で、やっぱり自治を重視して、自分たちでいろんな活動をやっていくんだ、という気持ちがありました。だから大学側とは、対立を前提とはせずに、いろんな議論や交渉を精力的にしていたわけです。全国的に、大学における学生自治を再定義するような時代であったと思います。
当時の活動方針案の文章を見ていただきます。「学内行事の質的向上」という節で、「商大の顔ともいえる対面式・対北大定期戦、緑丘祭、そして新歓行事を含めた三大行事に関しては、真の意味での全学的行事と呼ばれるにふさわしい、より一層の質的向上を求めていく」、とあります。ここがとても重要です。
北大との対面式は全学的な行事だったのです。そして新入生歓迎行事の一環で、自治会執行部が新歓パーティーを主催しました。大学会館の前でジンギスカンパーティーを開催したのです。
また、当時は学生寮がありませんでしたから(1984年に智明寮閉鎖)、福利厚生の意味でもぜひ建ててほしい、という運動をしました。これにも学生運動の時代にさかのぼる経緯がありました。大学側はそうやって学生がいつも熱い議論を交わしているような施設は作りたくないわけですが、自治運営を行っている北大の恵迪寮をひとつのモデルとして要請活動をしていました。いまある輝光寮は、商大100周年の記念事業の一環で建てられましたね。
それから私たちの時代にはもうなかったのですが、いわゆる500番棟と呼ばれる、大正時代に建てられた古い木造校舎があって、サークル会館のような機能を持っていました。
我々が入学した時には智明寮も木造旧校舎の500番棟もなかった。学生会館も、私が2年生だった1993(平成5)年に解体されました。いまの大学会館はその翌年に新築されたものです。私の在学した時代は、建物がどんどん入れ替わっているような時代でもありました。
自治会の当時の決算報告書を見てみましょう。予算総額は1千43万円くらい。緑丘祭の決算報告では、336万円くらいの予算で開催されていたことがわかります。そのうち自治会から230万円が入っています。
ちなみに自治会費というのは、いまの皆さんも同じですが、入学時に4年分一括で払っているものです。そのことはちゃんと意識してください。適正に使われているのかを、春の学生大会に出てチェックしてください。
応援団の断絶と復活
さていよいよ応援団の話をします。私は自治会に入った流れで、商大でしかできないことをやりたいと思い、応援団に入団しました。高校時代は函館で陰キャ気味だったので(深夜ラジオ好きで放送局で活動していました)、大学デビューをした、と言えると思います。
いま第79代(1993年・平成5年)応援団3名の写真を見ていただいています。みな髪とヒゲをぼうぼうに伸ばしています。花園グリーンロードで私が団旗を振っています。すごくたくさんの方(だいたい商大生)が集まっていますね。旗には大きく「商大」と書かれています。皆さんの中には本学を「樽商」と呼んでいる人がいると思いますが、「商大」と呼んでほしいな、と思います。
私の時代は入学すると先輩たちから、もしタクシーに乗って大学に来ることになったら、樽商と言わずに商大と言えよ、と教えられたものです。地獄坂にあるいまの小樽海上技術短期大学校は、長く小樽商業高校だったので、そっちと間違えられるからです。商大はたいへん古くから小樽市民に親しまれ愛されてきた大学ですから、市民の方はみな商大と呼んでくれます。
3年生のときの対面式は札幌の北大構内で行いました。2年生での本番の対面式を終え、3年生になったので、髪がふつうに短くなっています。
5年生(1996年)のとき、旧札幌駅の前、そして道庁赤れんが前で撮った写真もあります。対面式は大通公園で行われました。先にふれましたが、応援団の主役は2年生です。私がそのあとも登場しているのは、1年おきにしか入団者がいなく、団員が少なかったからで、当時、長い伝統をもつ応援団は存続の危機にありました。私は、とにかく伝統ある対面式だけは続けなければ、自分の代で最後にしたくないという思いがありました。
30年前の当時からすでに学生の風潮として、バンカラだとか、伝統というのは残った方が良い、自分が応援団をやるのは厳しいけど、誰かがやるなら応援するよ、という風潮でした。
小樽商大応援団は、1912(明治45)年5月、東北帝国大学予科と小樽高等商業学校との野球試合をきっかけに誕生したと言われています。いまの北海道大学と小樽商科大学ですね。
一方でこの対面式は、OBの話を聞くと戦後から始まったもののようです。野球などの試合が始まる前にお互いの応援団がエールの交換やヤジり合ったのがルーツではいないかと思っています。
そしてイベントの最後にみんなで歌う「若人逍遙の歌」があります。皆さんは応援団が歌う歌だと思っているようですがこれは学生歌、学生がみんなで歌う歌として、1957(昭和32)年に作られました。当時商大には4つの寮(北斗寮・正氣寮・文行寮・玉の井寮)があり、それぞれに寮歌がありました。大学としてもっと一体感を出そうと統一寮歌としてできたのが、この歌だそうです。
私の代は第79代でしたが、1997(平成9)年第83代(5年生の私が対面式に出た翌年)を最後に、対面式は途絶えてしまいました。このとき応援団は休団宣言を出しています。そのことは北海道新聞でも報道されました。
その後細々と継続して、7年もがんばって商大生をやった後輩もいて第90代(2004年)まで続いたのですが、2007年の卒業で応援団は完全に途絶えてしまいました。
私は卒業後も小樽勤務だったので、応援団がなくなっていくさまを近くで見ていました。応援団のような伝統的な団体は学生自らが本当にやりたいと思って入団しない限り、時代が必要としなくなったのだと思い、残念だけれどどうしようもないな、という心境でした。
ところが、2009年の1月。私は参加していないのですが、応援団のOBたちの新年会の飲み会の中で、応援団を復活させないか、という話が出て盛り上がったのです。そのことをあとで聞いたとき私は、「いやいやそれは無理ですよ先輩」、と言いました。
でも70歳代の大先輩が、「いまは応援団の精神があれば、髪の毛やヒゲは伸ばさなくても良いんじゃないか(そんな見た目ではアルバイトも出来ないよね)」、「女性でも留学生でも良い」、と言います。
そして商大開学100周年を迎える2011年に、「現役学生による北大との対面式をなんとしても実現したい!」—。話はそこまで盛り上がりました。OBたちのそんな思いが募って、2009年3月には応援団OBが中心となって、思いを実現させるために「商大応援団を復活させる会」が発足したのでした。
私はOBの中では若手なものですから、当時市民会館で行った商大の入学式や緑丘祭でデモンストレーションを行いました。デモンストレーションには北大の応援団も来てくれて、模擬対面式ができました。緑丘祭では体育館の前で行いました。またOBたちは母校を訪れては、現役学生に晩飯をたくさんおごったりして(笑)、勧誘活動も展開していきました。
その結果、2010年3月に商大応援団は、復活。
私たちOBの指導を受けて、第96代応援団としてその年の入学式でデモンストレーションを行いました。そして7月には北大に赴いて対面式を行うことができたのです。
私たちOBが一枚岩となって、こうして現役の後輩たちによる応援団が復活できたのは大きな喜びでした。さらに次の2011年、商大100周年の年には第97代で、史上初の女性団長が誕生します。この対面式のようすの報道(読売新聞記事)は、なんとYahoo!のトップページに写真つきで登場しました。「女性応援団長晴れ舞台」という見出しが躍っています。いまの皆さんはYahoo!で検索したりそのトップページを見ることはあまりないかもしれませんが、当時はたいへんなことでした。その写真の奥には、学ランを着た私の姿まで写っていました(笑)。こうして見事に商大100周年を飾ることができたのです。
応援団は何のために存在するのか
商大100周年を無事迎えたことで、2012年の春には「商大応援団を復活させる会」をあらため、私たちは「商大応援団後援会」と発展的に改称しました。応援団の維持継続が活動の目的です。そして2014年の秋には、第100代を迎えた記念式典を小樽市民会館で開催することができました。
コロナ禍で足踏みした年もありましたが、2022年には札幌の大通公園で北大との対面式が行われ、今年(2025年)7月には小樽のサンモール一番街で、第111回定期戦の対面式を行いました。
今回事前レポートで私は皆さんに、商大応援団の存在と活動について、その存在意義や存在価値を定義したうえで、「(1)大学に対する影響と効果、(2)商大生に対する影響と効果について論じてください」、という課題を出しました。
私が考える解答例は次のようなものです。
商大応援団は、商大の歴史と伝統、愛校心を「見える化」した「大学の象徴(シンボル・ブランド)」です。部活の個々の競技を応援する以前に、大学の象徴です。
歴史と伝統(文化)は、コミュニティに対する「誇りや愛着」、「共通言語による連帯感」をもたらします。それは商大生としてのアイデンティティにほかなりません。100年という歴史はお金で買えないでしょう。
大学には、「ブランド価値」を与え、学生には、「シンボル」としての連帯感・一体感を与える。これらによって醸成されていく愛校心は、学生活動の活性化に寄与するでしょう。ひいてはそれは、大学の活性化に直結します。応援団の活動は、全学的には浸透していない部分はありますが、応援団は存在するだけで価値がある、と考えます。
実はこうした考えは、私の中でとくにこの数年で言語化できるようになったものでした。つまり「応援団とは何か?」、「応援団とは何のためにあるのか?」、「それは大学に本当になければならないのか?」ということを繰り返し考え直すようになったのです。
仕事やその周辺で、自分は応援団出身で、いまは応援団を指導する活動をしている、という話をすると、「あぁ商大の応援団は女性団長ですね」、などといまだに言われます。復活とその時代の応援団の動きには、それくらいインパクトがあったわけです。毎年対面式をやると、道外からもたくさんのOBOGが、興味を持って見に来てくれます。商大にとっての宣伝効果、そして小樽や札幌にとっての経済効果まであると思います。
皆さん、応援団に限らず、商大で自分が関わっている組織が果たして商大生や大学に対してどういう影響や効果を与えているのかな、と、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。自分が楽しむためにやっているのだから、そういうことは別にどうでも良い、という団体ももちろんあるでしょう。私はそれを否定するつもりはありません。一方で自治会や緑丘祭に関わっている人たちは、ちょっと改めてそういう視座をもってみてはどうでしょう。
本講義のまとめとして、私のこれまでのキャリアを振り返ると、「誰かへの貢献」がキーワードになると思います。私は、大学時代は緑丘祭実行委員会、自治会執行部、応援団と、「自らが活躍」ではなく 「裏方」として誰かがやる必要のある活動をしてきたと自負しています。また、地域との関わりや貢献を軸にビジネスを展開するバス会社での仕事もまた、その文脈の延長にあると思います。さらに応援団後援会の活動は、母校への貢献にもなっていると思っています。
そして仕事と家庭に加えて、趣味としての応援団後援会活動、つまりサードプレイスを持ったことで、組織マネジメントを学び、そのことが仕事にフィードバックされ現在の自分に至っていると思います。
最後にもう一言私が皆さんに伝えたいことは「商大は小樽の山の上の小規模な大学だからこそ、ここでしかできない学生時代をおくることができる。だからいま、ここでしかできないことを見つけて実行しましょう!」です。
つまりは、ぜひ緑丘祭に参加してください。そして応援団の対面式も見に来てください。またOBOGが現役生と交流する「ホームカミングパーティ」や、YOSAKOI、小樽をより良いまちにするために活動しているグループのイベントなど、商大をめぐって、自分の足元で行われているそうしたものにぜひ積極的に参加してみてください。それが、商大でしか体験できないことにほかなりません。
来年の7月には札幌の大通公園で、対面式があると思いますので、ぜひそちらにも参加してください。

<大坂則幸さんへの質問>学生より
Q)学生時代に取り組んだ勉強について教えてください。おもしろくやりがいを感じていた講義や学びにはどんなものがありましたか?
A)勉学の話はつらいところです(笑)。今の皆さんがかわいそうだなと思うのが、すべての講義に出席しなきゃいけないですよね。当時ももちろん出席しなきゃいけないわけですが(そもそも学生は出席を強制されているわけではなく、自分の意志で出席するわけですが)、試験だけで良い点数を取れば単位が取れる専門科目もあったのです。そういう科目では友人からノートを借りまくりました。ですから質問の答えにはならないのですが、授業はそこそこに、それ以外の活動をしっかりガンバロウ!というのが私の見解です。スミマセン(笑)。
Q)応援団活動の中で、特に社会に出てから役に立ったことは何ですか?応援団で得たことが、社会人になってからの大坂さんを支えていますか?
A)30年前の応援団では、いまなら完全にパワハラと認定されるような厳しい練習が行われていました。振り返ってみれば、そんな毎日が自分のストレス耐性を高めてくれたと思います。会社の仕事で多少怒られたくらいでは、応援団で先輩からしごかれたことを思えば別にたいしたことないな、と感じたものです(笑)。これは皆さんの参考になる話ではありませんね。
それともうひとつ、北海道中央バスで働いていて、自分が商大の応援団だったことは、今でも力のある肩書きになっています。というのもいまだに緑丘会の総会などで、校歌や若人逍遥の歌を歌うときには私がエールを切ることがあるので、結果としていろいろな人に顔と名前が知られているからです。特に北海道では商大のOBOGがいろんな業界で活躍していますから、そういうことで人脈が広がっていると思います。
Q) 商大を5年で卒業したこと、そして当時はそういう学生がたくさんいたことに少し驚きました。留年を決めたとき、ご両親とはどんな話し合いがありましたか?
A)なるほど、皆さんには想像しづらいことかもしれません。当時(1990年代後半)は、いわゆる就職氷河期の入口でした。私は1973年生まれで、ちょうど皆さんのご両親の世代にあたると思います。1997年には北海道拓殖銀行が破綻しています。就職が決められなかったので私は就職浪人を選んだ、というのも留年の事情のひとつでした。
それと私は、実は家庭の事情もあって4年間学費を免除してもらった学生でした。親には、申し訳ないけれど4年間学費がかからなかったんだから、1年分だけ見てほしい、ときちんと面と向かって頼みました。
Q)バス以外の事業でも、地域に根差しながら地域に貢献することがベースだというお話がありました。そうした取り組みが、バス事業本体にはどんな好影響があるのでしょうか?
A)ここではシンプルな話をします。天狗山の話をしましたが、天狗山には路線バスに乗って多くのお客様がいらしていただいています。天狗山に来るお客さんが増えれば、バスに乗る方も増えます(オーバーツーリズムの懸念があるのも事実ですが)。
ニセコのスキー場についても、スキーバスとして札幌や新千歳空港からバスを走らせています。また潮まつりなど地域のまつりでは当然、地域の人々が動きますから、バスに乗ってくださる方も増えます。まつりではお酒を飲んだりしますので、マイカーは使えませんからね。
Q)運転手不足がよくニュースでも取り上げられます。会社としてはどんな対策を取っていますか?外国人材の登用や、将来的には無人運転なども視野に入っていると思うのですが。今後の見通しを教えてください。
A)いまの私はバス事業に直接関わっていないので一般論になりますが、個人的にはバスドライバーが外国人になることには、少し不安があります。事故対応とか災害などの緊急時にお客さまに適切な対応ができるかな、と。お客さまを運ぶ公共交通機関の基盤はまずなんといっても安全にあります。同業他社で外国人乗務員採用の動きがあることは承知していますが、いまの当社の状況としては、積極的に動く状況にはないと思っています。
乗務員減少の対策としては、先日テレビニュースでも紹介されましたが、休憩所の環境を良くするとか、運賃改定で生まれた原資を給与アップにつなげることが進められています。また先ほどふれましたが、法改正によって、18歳で普通免許を取ったあとで所定の講習を受ければ、19歳で大型二種免許を取得できるようになりました。かつては最短でも21歳からでした。あらゆる業界でいま人材不足ですから、ひとつひとつ地道にやっていくしかないのだと思います。
Q)応援団を軸にした大坂さんの商大時代の日々は、どのように発展して現在の大坂さん作っているのでしょうか。応援団の活動に熱中したことが、ご自身のアイデンティティーや自信にどのように結ばれていきましたか?
A)自信はいまだにないです(笑)。重要な局面では緊張もします(今皆さんを前にしても)。ただそれなりに場慣れしているので、そうは見られないかもしれません。学生時代で一番やりがいを感じたことは何ですか?と聞かれたら、先ほどお見せした対面式の一場面を上げます。最後に「若人逍遙の歌」を歌いながら、大きな団旗を振って「フレーフレー商大!」とエールを切ると、会場にいる商大生全員が声を合わせて「フレフレ商大!」と、その場の空気がほんとうにひとつになります。これはやった者しか絶対にわからないことだと思います。
繰り返しになりますが、緑丘会の集まりでも、必ず最後に校歌や「若人逍遙の歌」を歌って、あなたは応援団OBだから締めてくれ、という流れになります。私は緑丘会の役員を務めてはいませんが、そのことが緑丘会の皆さんとの絆を強めてくれます。あの人知ってるよ、と自分のことを知ってくれる人がいれば、仕事でもそのほかの面でも、自分の世界を豊かにしてくれると思います。
教員より
Q)最後に後輩諸君に応援のメッセージをお願いしたいと思います。
A)応援団は大学の象徴なんだ、という話をしました。この応援団の歴史が途切れてしまったことがある、という話もしました。小樽商大のキャンパスには、古い建物や設備がほぼ残っていません。歴史的建造物が多く残る北大とはそこが違うと思います。でもだからこそ応援団が活動することが、商大の歴史と伝統を見える化しているのだと思います。
そして皆さんは、母校のこの歴史と伝統、いわば「商大という名の看板」を存分に使い倒して欲しいと思います。そのために商大で行われているいろんなことに積極的に顔を出したり参画して、学生生活を謳歌してください。もちろん、北大との対面式にも来てください。私からのお願いです。
