
- <担当科目>
- 日本文学Ⅰ、日本文学Ⅱ、文学と人間(人間と文化論(夜間))、基礎ゼミナール、研究指導(ゼミ)
中村史 教授
NAKAMURA Fumi
日本の古典文学とインドの古典文学など
このような遍歴の中で、単著として写真のような三冊を公刊しました。一冊目(写真左側)は師匠の友人がされていた出版社が著者の負担無しに出版してくださったものです。二冊目(写真右側)は科学研究費補助金の研究成果公開促進費によるもので、この時、制度の大きい変更があったため困ったことが起こりました。その際懇切に対応してくださった山本眞樹夫学長(当時)と和田健夫副学長(当時)に改めて御礼を申し上げます。三冊目(写真中央)は小樽商科大学大出版会の研究成果刊行経費によって出版していただいたのですが、この時にも別の困ったことがありました。その際寛大な取り扱いをしてくださった江頭進副学長に改めて御礼を申し上げます。
根源的なものを追い求めたい
私は子供の頃から本を読むのが大好きで、読んだ本のほとんどは文学作品でした。そして、早くから、もし将来大学に行くことができたら文学を勉強したいと思っていました。実際大学に入ることができた時には「日本の」文学を専攻するとかたく決めており、それに加え、古いこと、思想・宗教に関わることを勉強したいと考えていました。いろいろあってその地域範囲は日本のみならず東洋(アジア)、そして・・・と広がってきているようですが、変わらないのは、より根源的なものを追い求めたいということであろうかと思います。
なお、研究しているわけではありませんが、児童文学にも大変興味があります。これも根源的なものに迫りたいという念願と関わりがあるかもしれません。
沖縄の口承文芸(昔話)の調査
もうずいぶん前のことですが、沖縄の口承文芸(昔話)の調査をした経験があります。主に1990年代、小樽商科大学に赴任する前と、赴任した後の、合わせて十数年くらい、師匠に任されて調査をし、インフォーマントの方々、自治体の方々、地域のまとめ役の方々と結構やりとりをしました。その成果はさまざまな形で公刊しており、琉球の古典文学や沖縄の口承文芸について授業をやっていた時期もありました。
また、そうした体験は間接的にであれ、私のその後のさまざまな研究の中に生かされています。正直なところ、私はフィールドワークのような仕事にあまり向いていなかったと思っていますが、だからこそ、早い段階で体験して良かったのでしょう。沖縄への再訪はその後長らく叶っていませんが、沖縄のことは今でも心から好きです。
ゼミ生たち
上に書いたような事情もあり、私は日本の神話・説話を研究するゼミを何度か、インドの古典文学を研究するゼミを1度、開講してきています。いずれもゼミ生の数は少なかったですが、さすがに小樽商科大学であえてこのようなゼミを選ぶだけに、文学が好きで、本当に勉強をしたいという学生ばかりであったと思います。
最初のゼミ生の一人は、昔話「笠地蔵」をテーマにして卒論を書き、精魂をこめた内容であったのが忘れられません。また、インド古典文学のゼミを開いた時、たった一人であったゼミ生は語学・古典語が好きで、『バガヴァッド・ギーター』(サンスクリット叙事詩『マハーバーラタ』の一部)をテーマに卒論を書きました。
ゼミ生の進路の傾向はと言えば、わりあい手堅い就職といった感じだったでしょうか。文学・語学が好きであっても、それをそのまま生かす進路というわけではなかったと思います。
文学は生きる力を与える
小樽商科大学の学生、小樽商科大学をめざしている高校生、いずれでもない方々、誰にでも伝えたいメッセージとして書きます。それは、本を、それもできれば文学を読んでください、ということです。この記事を読むような方であれば、とりあえず日本語で書かれた本を、ということで、今は文学作品を、ということに特定します。学生である方ならば、今のうちに長編小説をできるだけ多く読んでおくのも良いでしょう。私自身も学部学生の時代に結構長編小説を読みましたが、その後再読することがほとんどできません。最近何とか再読したのは島崎藤村の『夜明け前』で、これは、幕末から明治初頭にかけてのまさに動乱の時代を生きた人物−−藤村自身の父がモデル−−の生涯を描くものです。現代もまた大きく変化する時代ですので、教えられることの多い作品ではないでしょうか。なお、私がこの作品を再「読」したと書きましたが、正確に言えば朗読を聞いたのです。「本を読む時間が無い」という人にはこのように、朗読を聞くという方法もあります。ただ、同音異義語が多く、視覚的要素の大きい漢字を用いる日本語の文学は、すでに相応の知識や読書体験のある人により向いています。また、上に挙げた『夜明け前』などは知識もかなり求められるため朗読にはやや不向きかもしれません。それでも、各々の好みや蓄積に応じて聞くものを選ぶことはできます(最近は随分いろいろな形で朗読を聴く手段が増えてきました)。
文学あるいは文学的な要素は人を生かすものです。最もひどい状況をさえ切り抜けさせることがあります。アメリカの児童精神医学の翻訳書で、ある子供が苛烈な環境を、『オズの魔法使い』を読むことによってのみ生きぬいたという事例を読んだことがあります。また、有名なヴィクトール・E・フランクルというユダヤ人の精神科医が書いた『夜と霧』があります。私はこれも翻訳(霜山徳爾訳、みすず書房、1961年)でしか読めていませんが、この著作自体が文学作品でしょう。そこに、収容所に収容された仲間の外科医と、お互いに一日に一つは笑える話を作って披露しあうことを義務としたという逸話が書かれています。その外科医がフランクルに話して聞かせた未来についての夢とユーモアある話の一つは、次のようだったということです(引用)。
たとえばわれわれはどこかの家の晩餐に招待されたとする。そしてスープを分ける時にうっかりしてそこの家の主婦に−−丁度労働場で昼食の時にカポーにするように−−すみませんが豆が二つか三つか、あるいはじゃがいもが半分お皿の中に泳ぐようにスープを「底の方から」すくって下さいと嘆願するのじゃないかしら・・・
これはごく断片的な話ですが、ユーモラスで文学的です(「カポー」は監督役のユダヤ人囚人です)。以上の例は少々極端ですが、文学はたとえ現実が厳しい時にあっても人に生きる力を与え得るということです。
また、もっと普通の日常を生きるにも、言葉(ここでは日本語)のセンスを育てることによって生きることが楽しくなります(功利的な言い方をすれば、頭を鍛えることにもなります)。たとえば、谷川俊太郎の『ことばあそびうた』(福音館書店、1973年)の一例「かっぱ」を挙げます。(引用)
かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった
「とってちってた」はラッパの音を模しているもので、それなりの歴史がある言い回しです。ふざけているわけではありません。この詩は近年、小学校低学年の国語教科書にも採られています。
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