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「JR Hokkaido 12月号」に商大の記事「特集 小樽高商、青春グラフィティ」が掲載されたんだって。大先輩「小林多喜二」と「伊藤整」を中心に、商大の伝統がわかりやすく掲載されているので、簡単に紹介してもらおう!




伊藤整と小林多喜二は、同じ時期に小樽高商で学んでいた。学内で開かれたフランス語劇「青い鳥」では二人が共演している写真が残っている。伊藤整は、このころ多喜二はすでに小説や詩を書き、編纂部で活躍していた多喜二をライバル視していたらしい。整の小説にはつぎのような描写がある。


「広い閲覧室のどこかに、あの蒼白い、自信ありげな顔をした小林がいるのを発見した。また来ている、とその度に私は彼の存在を意識し、うるさいように感じた。」


しかし、日本を代表する作家が育った小樽高商には文学部はなかった。実学を重んじる高等商業学校である。大正から戦前までの小樽は、樺太や満州への積み出し港であり、北海道の物流拠点として繁栄の絶頂期にあった。その小樽に立てられた官立の小樽高商は、日本三大高商の一つとして全国から学生を集め、ビジネスの最前線で活躍するエリートを育てていた。


学生が売買の模擬取引ができるように、学内には銀行、倉庫、保険、運送などの模擬店舗が設けられていた。さらに、製造のしくみや、原価計算、販売の方法を学ぶために、石鹸工場が作られていたのは有名な話だ。経営は赤字だったが、初代校長の渡邉氏は「その赤字のよって来るところはどこにあるかを、検討するのも貴重な会計学の問題である」と述べたという。


本学の荻野教授は次のようにコメントしている。「高商は実学主義でありながらレベルの高い人文社会系の教授が揃っていました。大正デモクラシーの波が打ち寄せる時代にここで学べた意味は大きかったでしょう。」


戦後、高商から大学になった小樽商科大学は、2011年に創立100周年を迎える。


    

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