Introduction
みなさん、こんにちは。私のホームページにようこそ。私は、小樽商科大学で経済学史を担当している江頭です。



 なぜ経済学史を学ぶのでしょうか? 

なぜわれわれは大学で経済学史を学ぶ必要があるのでしょうか。なぜ,今さら,何百年も前の人の議論を何十時間もかけて学ぶ必要があるのでしょうか。みなさんの中には,経済学の歴史なんか習っても,実際の社会で生きていくのに何の役に立たないと考える人もいるでしょう。





 
経済学史の役割 

しかしながら,私は,少なくとも一つの理由でみなさんに経済学説史を学ぶことをお勧めします。この種の学問は,ものの考え方を「相対化する」という意味を持ちます。現在,近代経済学の力は圧倒的で,日本においてすら,徐々に独占的地位に就こうとしています。50年ほど前には,マルクス経済学がこの地位にありました。昭和の初め頃に経済学を志した人々は,「マルクス経済学をやらなければ,経済学者ではない」と言われたそうです(私は,大学院のときに,ある女性の先輩からこれを言われたことがあります)。



 経済学の限界 

それでは,近代経済学特に,新古典派経済学は間違っていないのでしょうか?そもそも,何をもってある理論が正しいと言いうるのでしょうか?経済学を含めた社会科学の特徴は,「どれだけ詳細を究めた記述を行っても,決してリアルなものを表現できない」,というところにあります。もちろん,理論を標榜する以上,内的な論理矛盾は解消しなければなりません。しかし,現実はどんどん動いているものです。それに対して記述はあくまで静的なものです。したがって,記述と記述されるべき現実の間にはどうしてもズレが出てきてしまいます。世界がこのような性質を持っていることを認めるとすると,静的な記述でもって動的な現実を予想した入りすることはできないことになります。

しかし,「予測」ということは近代科学の一つの柱でした。最近では複雑系理論の登場などで,自然科学の分野でも必ずしも世界は予測可能なものではないということが知られるようになってきましたが,経済学ではその意味がいっそう大きなものとなります。

それでは,経済学は何のための学問なのでしょう。もちろん,回顧的に事象を記述するということがその役割としてまず挙げられます。もちろん,どれだけ記述を重ねても,それはリアルとの溝は埋められないものなのですが,そのズレを埋めようという永遠の努力は,科学的活動の本質でもあります。

しかしそれ以上に,経済学には,不確実な将来に自分の身や財産を投げ出さなければならない人たちに,いくつかのアドバイスを与えるという役割があります。ここで忘れてはいけないのは,これはあくまで「アドバイス」に過ぎない,ということです。経済学が理論的に将来の予言が出来ないということは理論的に証明することができます。テレビなどで,「景気はいついつ回復する」とか言っているエコノミストの発言は,多くが彼ら自身の勘に依存しているのです。このことは,「金融商品の正確な価格を割り出すことができる」と豪語したノーベル経済学賞受賞者のマートンとショールズらのLTCMが失敗したことに端的に表されています。しかし,経済学者が提出する現状分析に基づいたアドバイスは,役に立つものもあります。

 


 一つのアドバイスとしての経済学 

しかし,ここで重要なのは,あくまでそのような考え方が,一つの考え方に過ぎないということは理解しておくべきです。現代経済学は,いくつかの小さな仮定から始めてほとんどすべての経済現象を説明できるかのように語ります。しかし,これは実は,19世紀末ぐらいに登場したいくつかの人間にかんする仮定,あるいは情報に関する恣意的な仮定,そして世の中は「均衡」するという前提を認めた上で構築されている仮説に過ぎません。これはマルクス経済学が,価値の源泉として労働を置いた上で整合的な議論を組み上げたという形と何ら変わることがありません。もっというと,神の存在を前提に,無無純な体系を作り上げている宗教と変わることがありません。経済学者のアドバイスというのは,協会で牧師がアドバイスしてくれるのと,意味的にはそれほど変わるものではないということができます。


もちろん,牧師のアドバイスが人生に有用なのと同様に,経済学のアドバイスも有用でありえます。しかし,問題は,それを「一つ」のアドバイスとして捉えることができるのか,ということにあります。人はなかなか自分の持っている考え方を,相対化できません。自分の判断があくまで主観的な判断である,ということを認めることは大変な訓練を必要とします。それと同じように,みなさんが大学で習う経済学も今までいくつかの偶然に支えられながらできあがった一つの考え方に過ぎないのです。経済学史の講義は,ある時代,ある状況に置かれた経済学者がそれぞれどんな考え方を提出したか,なぜ彼はそのような考え方をしたのか,を見ることによって,今みなさんが習っている経済学を相対化するための学問なのです。
昔,ジョーン・ロビンソンというケンブリッジにいた経済学者が,「経済学を学ぶのは経済学者にだまされないためである」という言葉を残しました。この言葉が名言であるのは,それが単に経済学のことを正確に表しているからだけでなく,ある意味で人生の重要な側面を正しく捉えているからでもあります。われわれは,長い人生をいろいろな分野で生きていくことになります。そしてその分野に習熟していけば行くほど,それまではわからなかった嘘や迷信,ごまかしやトリックを目にすることになります。しかし,それを発見しても失望する必要はないでしょう。人類の歴史は,多くがそのような問題の発見と維持,そして修正によって形作られてきているからです。



チェック・システムとしての経済学史 

私は,経済学史を,経済学の発展のための一つのチェック・システムである,と捉えています。経済学史は,なぜある理論思想が登場したのか,ということの背景を考えます。ある考え方は,ある一定の状況においてのみ意味を持つからです。経済学者が用いた方法論や彼の思想を研究し,彼の到達した理論が,果たしてわれわれに意味を持つものなのかどうかということ常に考えていかなければ,理論が一人歩きしてしまう危険性があります。経済学が政策形成に大きな影響を及ぼしている現在では,これはおそらく人々を幸福にしないでしょう。



社会科学の中,あるいは自然科学の中で,このように学問自体の中にチェック・システムを内在させている分野はほとんどないのではないでしょうか。この点で経済学は他のあらゆる学問に対してアドヴァンテージを持っていると言えます。大学で学んでいる経済学の位置づけを知り,経済学自体を相対化し,社会科学そのものを反省するということは,人間としての自分自身の反省にも似て非常に意味深いものを与えてくれるのです。


もどる