2007年3月30日
沖縄戦集団自決について

 

 
 
文科省の検定で,「日本軍の強制による集団自殺」という項目が削除されたという。この問題については,そもそも以前から恣意性がささやかれていたもので,裁判にもなっているので意外でもなんでもなかった。むしろ驚いたのは,強制が事実であったとするグループと,事実でなかったグループの背後にある争点が,単に日本軍に対するイメージの問題に矮小化されていたということである。これは第二次世界大戦における日本の責任を考えるときにしばしば見られる構図である。それは「日本軍の行為が残酷であった。故に日本軍は悪である」という主張と「日本軍の行為に残酷なところはなかった。故に日本軍は悪ではない」という主張に二分される。

しかし,日本軍が悪かどうかということに,現代に生きるわれわれにとってどれだけ意味があるのだろうか?日本軍が悪であったから,賠償しなければならないわけではないし,周辺国の非難を受けているわけでもない(象徴として使われることはあるがそれは本質ではない)。ましてや自国の国民と軍隊の関係を悪か否かで話をすることがどれほど意味があるのだろうか。

問題はむしろ一般市民が集団自殺をしなければならないような事態に追いやった政府の問題である。強いて言えば,当時の政府の目的と本来国家が果たさなければならない役割のずれこそ議論しなければならない。沖縄戦の最大の問題は,一般国民が住むところで戦闘を起こしてしまったという日本政府の判断ミスにあるのではないか。以前にも述べたが,突き詰めて言うと,国家とは国民と国民の財産で構成される(国土も広義の国民の財産である)。ところが,第二次世界大戦中の日本政府と日本軍は,その防衛の対象を他の所においてしまった。彼らは,天皇制国家日本という仮想を自らの狭小なプライドを置き換えたのである。

沖縄戦,そしてソ連参戦後の日本軍は,住民を守ることを前提に作戦を立てることはなかった(あまり知られていないことだが,ポツダム宣言の受諾以降に満州で起こった様々な悲劇の一部は,日本軍が防衛戦を日本人入植地域よりはるかに南に張ったことにも原因がある。多くの残留孤児はそこで発生している)。抵抗をできるだけ長期化させるという意味では,戦術的には個々の住民を守ることにはそれほど意味が無かったらしい。できるだけ長期化させることによって,得られるものは本土侵攻の遅延であった。戦局をひっくり返す妙案は日本にはまったくなかったし,おそらく沖縄戦以前に日本が降伏していたとしても結果は変わらなかったからである。せいぜいあったとしても,サイパン,硫黄島に次いで頑強な抵抗を行い,アメリカ軍に本土侵攻をためらわせ,できるなら条件付き降伏を,というのがせいぜいできた日本の算段であった。しかし,日本近海での膨大な被害は,米軍をしてより効率的な日本の破壊と脅迫をエスカレートさせただけであった。2個の原子爆弾の投下は,日本本土侵攻時の米軍の損害の軽減という視点から行われた。敵国の非戦闘員よりも自国の戦闘員の損害を優先させるという考え方はもちろんそれはそれで国際法上の問題があるだろうが,しかし戦争を指導する政府としてはきわめて自然な考え方とも言える。いつわりの公共心を強調し,人工的な「国民精神」を国民の生命よりも優先して,国民が自殺をせざるえないような精神状態に追い込む,ということがどれだけ近代国家の基本からはずれているかということはあまりにも明らかであろう。

第二次世界大戦の日本軍が悪ではなかったということは,一部の人達にはそれは気持ちのいいものであろう。神風特攻隊,敷島特攻隊の公共精神の純粋さを協調することは,誇らしげに聞こえるかも知れない。昔の日本人はこんなに美しかったのだ,ということはどこか生きて行きにくい現状の否定の裏返しなのだろうか。しかし,それは先の大戦の本質を考えることにはならないし,次の戦争を防ぐことにもならない。第二次大戦に日本がのめり込み,多くの国民の犠牲の後に敗北したことは明らかに政府の失敗なのだ。巷には仮想戦記があふれているが,いずれも「あの時点で,軍事作戦が成功していれば」とか「あの時点に超兵器があれば」とう軍事上の問題にしか視点を当てていない。たとえ,偵察機のカタパルトが壊れていなくても,戦艦大和が空を飛べたとしても,根本的に問題のある政府の指導の下では,時間の問題で敗北するしかなかったという結果にはかわりがない。

日本人は,政府の問題を一方では「悪の日本軍(特に陸軍)」で,他方では「アメリカの科学力と工業力」に置き換えることで曖昧にしてきた。戦争が政治の一つということを考えれば,戦争の悲劇を考えるのならまず政府の問題を追求すべきであり,そのような政府を生んだ日本の政治状況を考えるべきだ。太平洋戦争全般を通じて,アメリカの方がなぜ戦争をするのか,どうやって戦争をすべきか,ということを理解していたようにみえるし,日本にはこの視点がかけていた(アメリカが正義の戦争をやっていたというわけではない。あくまで国家の目的に忠実だったということだ)

おそらく現在の日本にも次の戦争が起きることを防ぐ仕組みはないし(憲法9条は「現場の判断」で突発的に始まる戦争を防ぎ得ない),それが存在しないことに気がついている日本人も少ない。 政府の役割は「国民の生命と財産を絶対的に守ることにある」ということを自覚するためにも,沖縄戦集団自殺事件は語り継がなければならないのである。

 
 

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